真っ黒な夜の闇が雑木林を覆い隠した。湿り気を含んだ夜風が、湖の葦の葉をザワザワと揺らす。バーベキューの後片付けに勤しむ参加者たちは、蟻の行列の様に芝生広場から駐車場までを何往復もした。
「小鳥ちゃん、足元、気を付けて」
「あ、はい」
湖沿いに点在する、グランピングのログハウスからは焼き魚のにおいが立ち上り、シェルターグランシートからは、焚き火で炙ったマシュマロの甘い匂いが漂って来た。続いてコーヒーを片手に賑やかな笑い声がドッと挙がる。そこにはランタンが幾つも灯り、まるで湖面に漂う星空にの様にも見えた。
「あっ」
「佐々木さん、どうしたんですか?忘れ物?」
「小鳥ちゃん、見ちゃ駄目だよ!」
「え?なにがですか?」
小鳥が暗がりで目を凝らして見ると、椎木(しいのき)の陰に人影が見えた。
「・・・・あっ!」
若い男女が共に時を過ごせばその行為に至る事は容易い。しかもこのロマンティックな雰囲気の中で、唇を重ねても誰も咎(とが)めないだろう。
「あっ、あっ!ちょっとっ!あっ!」
「ほら、見ちゃ駄目だって言ったろ?」
「キ、キス・・・キス、キスしてる!」
「してるね」
「こんな場所で!」
「してるね」
小鳥は頬を膨らませて佐々木隆二を睨み付けた。
「なに、そんな怖い顔をして」
「佐々木さん!私にわざと見せたんでしょう!」
「そんなつもりはないよ?善意の行為だよ」
「佐々木さんが言わなきゃ気が付きませんでした!」
「そう?」
「そうです!」
男子大学生と熱い抱擁を交わしていた女子大学生は、村瀬 結 だった。佐々木隆二は悪戯心で小鳥に声を掛けた。
「ほら、小鳥ちゃんのお友だちみたいに、僕たちもチューしない?」
「しません!」
「ほらほら、遠慮はいらないって」
佐々木隆二は朗(ほが)らかに笑いながら、小鳥の顔を覗き込んだ。小鳥の顔は赤らみ、手に持っていた折りたたみ式の簡易チェアーで佐々木隆二の尻を叩いた。
「いっつ、いっ痛!」
「もうこんな悪戯(いたずら)しないで下さいね!」
「分かった、分かった。ごめんって、その椅子は下ろして」
「信じられない!もう!」
「ごめんってば」
半ば拗(す)ねた小鳥の背中を、平謝りの佐々木隆二が追い掛けた。ふとそこで、小鳥が誰かの視線を感じて振り返ると、そこには田辺明美とクーラーボックスを持った拓真が立っていた。
「佐々木、邪魔」
「あぁ、ごめんごめん」
「あんまり巫山戯(ふざけ)ると怪我するよ」
「分かった、分かった」
小鳥と佐々木隆二が道をあけると「ちょっとごめんね」と拓真が小鳥の目の前を通り過ぎた。
(・・・・あ、この香り)
それは、スパイシーな柑橘系のシダーウッドの香りだった。
「ごめんなさい、ありがとう」
「どうぞどうぞ」
「ごめんね」
「・・・あ、はい」
そして、田辺明美が発した艶のあるシルキーボイスに激しく嫉妬した。
(仕方がない)
この”メビウスの輪”の世界でも、拓真は田辺明美と交際を始めるのだろう。小鳥はそれを何年も傍観者として眺めるしかなかった。
(だって、私と拓真が出会うのは2023年の7月7日)
「小鳥ちゃん?」
いや、もしかしたら既に巡り会ってしまった小鳥と拓真の人生は2度と交わる事がないのかもしれない。
(・・・あの横断歩道で拓真の背中を引き留める)
「小鳥ちゃん」
それでも小鳥は拓真を交通事故という悲劇から守りたかった。その為には、これから9年という長い月日を耐えて、2024年の7月7日にあの横断歩道で拓真が現れるのを待つしかなかった。
(それが、他の
「小鳥ちゃん!危ない!」
「・・・・えっ!」
佐々木隆二に声を掛けられた瞬間、両腕に簡易チェアーを抱えていた小鳥は駐車場の車止めに足を取られ、身体の重心を前に倒していた。隣に立っていた佐々木隆二の両手はビールケースで塞(ふさ)がり、咄嗟(とっさ)に動く事は難しかった。
その時だった。
「小鳥ちゃん!」
懐かしく恋焦がれた声色が小鳥の上半身を受け止め、間一髪でアスファルトにその膝を突く事は無かった。ただ、弾(はず)みで小鳥が両腕に抱えていた簡易チェアーは音を立てて地面に打ち付けられ、プラスティックの破片が辺り一面に散らばった。
「小鳥ちゃん!大丈夫!?」
シダーウッドの香りに抱き止められた小鳥は、信じられないといった目でその面差しを見上げた。そこには不安げな拓真の眼差しがあった。
(たく・・・拓真!?)
「小鳥ちゃん」と呼ぶ声の抑揚は正(まさ)しく、
「あ、あの」
「あっ、ごめん!」
「あの」
拓真は慌てた様子で目線を逸(そ)らし、小鳥の腕を引き上げると、足元に散らばったプラスティックの破片を拾い集め始めた。小鳥も簡易チェアーを生垣(いけがき)に立て掛け、それに倣(なら)った。
(・・・この人は
小鳥がその横顔を窺(うかが)い見ていると、視線に気が付いた
「
「い、いえ。助けてくれてありがとうございました」
「怪我しなくて良かったですね」
「はい」
(僕、僕って言ってる!)
急に余所余所(よそよそ)しく丁寧な言葉遣いに変化したものの、小鳥が倒れたあの瞬間は、「小鳥ちゃん」と叫んでいた。
(この拓真は
拓真の左の手首には、白い街灯に照らされた、シルバーのムーンフェイズの腕時計が鈍い光を放っていた。使い込んだその腕時計には、細かい傷が見て取れた。
(ユニセックスのムーンフェイズ)
間近で見る
(似ている)
2024年、ユニセックス用として販売されたこの腕時計が、2015年に存在しているとは考え難かった。
「小鳥ちゃん、拓真、大丈夫か?」
佐々木隆二がごみ袋を持って駆け寄って来た。
「ああ、ありがとう」
「はい、小鳥ちゃんも。指が切れちゃうから俺らに任せて」
「はい、よろしくお願い致します」
佐々木隆二は和(にこ)やかな声で、背後(うしろ)へと話し掛けた。
「大丈夫、大丈夫!椅子の二脚くらい壊しても平気ですよね!先輩!」
「平気じゃねーよ!」
その遣り取りを聞いていた拓真がフッと笑った。あの笑顔だ。
(この拓真は、
手を止めた小鳥がその背中を見下ろしていると、キャンプ場の最後の片付けを終えた男子大学生が砂利道を登って来た。そして拓真へと声を掛けた。
「お疲れ」
「先輩、お疲れ様です」
「高梨、今、何時?」
「えーと」
「おっ!」
拓真が腕時計を確認していると、男子大学生は左手首を掴んで頭上を振り仰いだ。
「これ、ちゃんと動いてるんだな!」
「え?なにがですか?」
「これこれ!月だよ、月!」
その指先はムーンフェイズの文字盤をさし、窓から顔を覗かせた黄色い丸い月を指でなぞった。
「これがどうしたんですか?」
「満月だよ!」
「満月?」
そこには煌(きら)めく星々を凌(しの)ぐ、眩しい満月が夜空に浮かんでいた。
2015年5月4日、それは満月の出来事だった。