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第71話 5月4日⑥

 その時、小鳥は木製ベンチに置かれたクッキーの箱に視線を落とした。2023年、はキャンプ場に携帯電話を持参せず、クッキーの箱に自身の携帯電話番号を書いて小鳥に手渡した。


『電話下さい』


 バーベキューコンロの煙(けむ)い炭の匂いと、儚い線香花火の明かり。小鳥は、の熱を帯びた低い声を思い出した。然し乍ら、この”メビウスの輪”の世界では、佐々木隆二がクッキーの箱を差し出した。


(不思議、この世界はこれまでとは違う)


 線香花火の雫がぽたりと落ちると、小鳥と佐々木隆二の間に、湿り気を含んだ若葉の夜風が通り過ぎた。暗闇の中、2人の視線が絡み合い、小鳥は思わず息を呑んだ。


「花火、終わっちゃいましたね」

「そうだね」


 佐々木隆二は花火の後始末をし始めたが、一呼吸置いて小鳥へと向き直った。バーベキューコンロの周囲はとても賑やかだが、湖畔に程近いこの場所はとても静かだ。


「俺。小鳥ちゃんの事、大事にするから」

「お付き合いはまだです。まだお試し期間です」

「そうだよね、そうだった」


 そう言って、佐々木隆二は朗らかに笑った。


「じゃ、みんなの所に行こうか」

「はい」


 サクサクと一歩、また一歩と芝生を踏む音がする。佐々木隆二は小鳥の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。やはりこれまで縁が有った人物だからだろうか、隣に並んで歩いていても嫌な気はしなかった。


(佐々木さんかぁ、なんだか不思議な感じ)


 小鳥の視線に気付いた佐々木隆二は、優しい眼差しで微笑んだ。


「ん、なに?俺に見惚れちゃった感じ?」

「そんな事はありません!」

「またまたぁ。そんな事言わないの、素直になった方が良いよ?」

「違います!」


 佐々木隆二とは、阿吽(あうん)の呼吸とまではゆかなくとも、言葉の遣り取りは軽やかで、それはとても心地が良かった。


(・・・それに)


 小鳥は、を不慮の事故から守る為には、拓真の親友である”佐々木隆二の恋人”という、一定の距離を置きながらも近しい存在が有効ではないかと考えた。


(ちょっと・・佐々木さんを騙すみたいで、申し訳ないんだけれど)


「小鳥ちゃん、どうしたの?」

「あ、あっ、はい!」

「ごめん。俺、なにか気に触る事、言っちゃったかな?」

「あ、ごめんなさい。ちょっとぼんやりしていました。久し振りに出掛けたから、疲れちゃったのかな」

「なんだ、良かった」

「ごめんなさい」


 焚き火の炎が揺れた。


「お、拓真」


 そこで佐々木隆二は、同じ様に後片付けを始めていた拓真と田辺明美に声を掛けた。小鳥は、拓真の視界に入らない様に、佐々木隆二の背後(うしろ)に身を隠した。


「拓真、片付け終わったのか?」

「今からだよ」


 立ち上がった拓真の足元で、田辺明美が花火の燃え滓(かす)を拾い集めていた。


「明美先輩、こんばんは」

「こんばんは」


 これから先、田辺明美はこうやって拓真の傍(かたわら)で微笑み続けるのだ。そう思うと小鳥の胸は苦しく、醜い羨望が渦を巻き、そのシルキーボイスに耳を塞いだ。


「あれ?佐々木、その子は?」


 佐々木隆二の影で、小鳥はより身を縮こませた。すると拓真は両膝に手を突いて屈み込み、柔らかな声色で語り掛けた。


「こんばんは」

「・・・・・」

「こんばんは」

「・・・こんばんは」


 小鳥の返事は、消え入りそうなほどにか細かった。不思議に思った拓真は、佐々木隆二の顔を見上げた。


「この子、どうしたの?」

「男と話す事が苦手なんだって」

「佐々木とは話しているのに?」

「俺の話術に不可能は無いね」

「適当なだけだろ」

「えぇ?そんな事ないよね、


 焚き火に焚(く)べられた炭が赤く呼吸し、火の粉がバチバチと舞い上がった。燃え盛る炎に、佐々木隆二の背後(うしろ)に立つ小鳥の姿が浮かび上がった。


(小鳥ちゃん!?)


 拓真は、驚いた表情で腕を伸ばすと佐々木隆二を横へと押し退けた。重心を崩した佐々木隆二は声を荒げた。


「なんだよ、なにするんだよ!」

「佐々木は黙ってろ!」

「はぁ!?」


 目を見開いた拓真は小鳥を凝視し、今にも言葉を発するかの様に唇を半開きにした。それは小鳥にとっては思いも寄らぬ行動で、絡み合う視線に捉われた小鳥と拓真は身動きが取れなかった。


「・・・・・・」

「・・・あ、の」


 そんな姿を怪訝に思った佐々木隆二が、2人の間に割って入った。


「なに、拓真は小鳥ちゃんと知り合いだったの?」

「・・・いや」

「小鳥ちゃんは駄目だからな」

「駄目?」

「小鳥ちゃんは俺と付き合うの」

「付き合う!?」


 拓真は、信じられないといった表情で、小鳥と佐々木隆二の顔を交互に見た。小鳥は慌ててそれを否定しようとしたが思い留まり、口を閉じた。


(そう!これから私は佐々木さんと付き合って、拓真を見守るんだから!)


「ね、小鳥ちゃん」

「・・・・・はい」

「付き・・・合う」


 宙に浮いたままだった拓真の腕が、力無く垂れ下がった。その様子を静観していた田辺明美が背後(うしろ)へと歩み寄り、拓真に声を掛けた。


「高梨くん、花火片付けない?」

「あ、はい」


 炎に照らされた田辺明美の表情は硬く、小鳥を一瞥した。


「じゃ、またな」

「おう、また後でな。明美先輩、拓真の事、襲わないで下さいね」

「ふふっ、嫌だわ。そんな襲わないわよ」


 その余裕の微笑み。年上の落ち着きが小鳥を苛立たせた。


「小鳥ちゃん?」

「あの男の人は、誰ですか?」


 小鳥の目は、バケツの水を運ぶ拓真の背中を追った。


「あぁ、そうだ。あいつ自分の自己紹介もなしで、ごめんね」

「いえ、良いんです」

「あいつの名前は、高梨拓真」

「高梨さん」


 小鳥は、その名前を噛み締めるようにゆっくりと呟いた。


「そ、俺と同じ経済学科の1年で同じゼミを専攻してるんだ」

「そうですか」

「読書サークルにも入ってるよ、ほとんど参加していないけれどね」


 佐々木隆二は小鳥の顔を覗き込んだ。


「なに、気になる?」

「いえ、そういう訳でもないんですが、あの2人って付き合ってるんですか?」

「拓真と明美先輩が?」

「はい」


 焚き火に焚(く)べられた炭が赤々と燃え、火の粉が激しく飛び散った。


「明美先輩は拓真の事を気に入ってるみたいなんだけどね。拓真はこう、なんて言うか」

「なんて言うか?」


 佐々木隆二はベンチに置いてあったビールケースを持ち上げた。


「拓真さ、高等学校の1年の冬に、急に変わったんだよ」

「変わった?」

「中学校の時から付き合っていた子と突然別れてさ」

「はい」

「それも理由もなく一方的で、あれは可哀想だったな」

「そうなんですか」


 小鳥も、折りたたみ式の簡易チェアーを両脇に抱えた。


「それから別人みたいに女子を遠ざけて、誰とも付き合わないんだよ」

「付き合わない」

「あ、別に男が好き、とかそんな理由じゃないからね!」


 小鳥の思い詰めた表情に、佐々木隆二は戯(おど)けて見せた。


「女性に対して、なぁんか冷めてるんだよな」

「冷めてる」

「だから、さっきの拓真にはちょっと驚いた」

「驚いた?」

「小鳥ちゃんの事、慌てて見てたでしょ?そんなに俺と小鳥ちゃんが一緒に居るのが不思議だったのかな」


 数名の男子大学生がバケツを持ち出し、湖の水を汲み始めた。賑やかだったバーベキューも終わりの時を迎える。


「じゃあ、俺たちも行こうか」

「・・・・・あ、はい」


 佐々木隆二は小鳥の顔を、悪戯めいた面差しで覗き込んだ。


「帰ったらLIMEするよ」

「もう、ですか!?」

「1時間でも2時間でも喋っちゃうかも」

「・・・・・」

「なに、その無言」

「緊張します!」

「じゃあ30分からね?」

「・・・・・」

「なに、なに、その無言」

「15分にして下さい!」


 佐々木隆二は失笑し、小鳥はその背中をポカポカと叩いた。


「いててて、やめてよ小鳥ちゃん!」

「笑わないで下さい!」



ジャリッ



 火が消え、白い煙を上げるバーベキューコンロ。そこには、小鳥と佐々木隆二の背後(うしろ)姿を恨めしげに睨む、ひとりの男子大学生の姿があった。

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