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第30話 sweet & bitter

 拓真は、2024年7月7日に交通事故にという事実を受け入れた。そして、小鳥と共に、来(きた)る2024年7月7日の”交通事故を回避”する為の、人生のカウントダウンを歩み始めた。


「あれ、静かだね」

「本当だ」


 頭上に叩き付けていた霰(あられ)の音は止み、ファンヒーターの微かな音と、アパートの隣人がポケットから取り出した鍵の音が、廊下から聞こえて来た。


「隣の人、今、帰って来たんだ」

「良かった」

「なんで?」


「だって僕たち、結構大きな声で話ていたでしょう?」

「あぁ、確かに、そうだね・・・・かなり、興奮していたかも・・・興奮してたね」

「久しぶりに大きな声を出したよ」

「私はそうでもないかな」

「え、誰かと喧嘩しちゃったの!?」


 拓真は驚いて振り向いた。


「違う違う、セール会場で「今なら50%OFFでーす!」とか、結構、大きな声で呼び込みをしなきゃいけないんだよ」

「そうなんだ、なんだか市場の魚屋さんみたいだね」

「似たようなものかな」


 思わず笑みが溢れた。


「仲直り、出来て良かった」

「そうだね」

「ちゃんと本当の事が言えて良かった」

「話してくれて良かった」

「だって「別れよう」なんていうんだもん、焦ったよ」

「別れるなんて言ってないよ!」

「言った!」

「言わない!」


バタン!


 隣の部屋の物音で、小鳥と拓真は肩を竦(すく)めた。


「今の、「うるさい!」って事かな?」

「違うと思うよ、結構賑やかな人なんだよ。扉の開け閉めはかなり響くよ」

「拓真のアパートは賑やかな事だらけだね」

「なんの事?」

「ほら、隣の家にはわん太郎がいるじゃない?」

「・・・・・ああ、そうだった」


 小鳥が立ち上がると拓真は少し物足りなさそうな顔でワンピースの裾を摘んだ。


「・・・・・ん?なに?」

「ん、なんでもないよ。ココア飲む?」

「飲む、飲む!」


 小鳥がカーテンを開けると窓ガラスは室内の熱気で白くなっていた。小鳥は窓に”はぁ”と息を吹き付けると大きなハートマークを描いた。結露(けつろ)の雫は涙のように、タラリと流れ落ち、氷のように冷えた窓のサッシを開けると12月の寒さが部屋の中へと吹き込んだ。


「わっ!小鳥ちゃん、寒いよ!寒い!」

「室内換気も大事だよ」

「そうだけど!1分だけだからね!」


 拓真はコンロにケトルを置いて、赤いトマトのキッチンタイマーを1分に設定した。深夜の小鳥との電話が1時間以上にならないように、ワンコインショップで購入して来たものだ。


「わぁ、気持ち良い!」


 吐く息は白く、夜の街には細雪(ささめゆき)が降っていた。


「・・・・・雪だ」


 小鳥はこの部屋を覆っていた陰鬱な空気を攪拌(かくはん)し、新しく清々しいものに変えようと窓を開け放った。もうなにも隠さず、公然と拓真に接する事が出来るのだと、その喜びを噛み締めた。


わんわん!わんわん!

わんわん!わんわん!

わんわん!わんわん!

わんわん!わんわん!


 小鳥の姿に気付いたわん太郎が、2階の窓を見上げて激しく吠え始めた。本当に、このアパートは賑やかしい。折角のロマンティックな雰囲気も台無しだ。小鳥は渋々窓を閉め、カーテンを引いた。


「拓真、雪が降ってるよ」

「そうなんだ」

「今夜はもっと冷えるね」

「はい、お待たせ、ココアどうぞ」

「わぁ、ありがとう!」


 マグカップのココアには、ハート型の白いマシュマロが浮いていた。拓真はが小鳥の誕生日に深紅の薔薇の花束を準備した事を「格好付けで気障(きざ)な男」だと眉を顰(ひそ)めたが、今の拓真も大概だと思った。


(ガラスのティーポッドの金花彩彩ジャスミンティーに、ハートのマシュマロって、かなり気障(きざ)だと思うけど?)


 小鳥は、ココアに浮かんだハートのマシュマロに目を細め、ローテーブルに肘を突いた拓真は、その横顔を微笑ましく見た。拓真の視線に気付いた小鳥は少しばかり戸惑い、頬を染めた。


「な、なに?どうしたの?」

「ん?可愛いなぁって思って」

「やだっ!なにを今更!当たり前じゃない!」

「当たり前なの?」

「当たり前!小鳥ちゃんは正義!」

「意味がよく分からないよ」


 拓真は少し温くなったコーヒーに口を付けた。そして立ち上がると、ベッドルームから小さな紙の手提げ袋を持って来た。それは両の手のひらに乗るくらいの大きさだった。


「ペールブルーがイメージカラーのブランドが、ここしか思いつかなくて」

「ええっ、拓真、ちょっと、待って!」

「どうしたの?」


 小鳥が慌ててショップバッグ(手提げ袋)に手を入れると四角く硬い物が指先に触れた。そして、手触りの良い布が巻かれている。恐る恐るそれを取り出して小鳥は仰天した。ペールブルーの小箱にシャンパンホワイトのリボンが結えられていた。


「ちょっ、これ、ティファーニだよね?」

「うん、そう」

「うん、そうじゃないよ!どうしたのこれ!」

「買って来たんだけど」

「それは・・・・それは分かるけれど!」

「ボーナスが思ったよりも少ないみたいで、シルバーで悪いんだけど」


 思わず唾を飲み込む。


「あ・・・・・開けて良いかな」

「どうぞ、小鳥ちゃんへのプレゼントだからね」

「あり・・・・ありがとう」


 手触りの良いシャンパンホワイトのサテンリボンをゆっくりと解き、ペールブルーの小箱の蓋を恐る恐る開けた。空気が抜ける感触。白い天鵞絨(ビロード)のリングケースの中には、オリーブの葉をモチーフにした銀色の指輪が輝きを放っていた。


「オリーブリーフバンドリングって・・・これ」

「お店の人が薦めてくれたんだ」

「そうでしょうとも」


 これは最新のラインナップで、オリーブの葉を連ねてリングにした指輪だった。素材はシルバーだと言うがプラチナの輝きと比べても遜色(そんしょく)ない。


「指輪のサイズはどうやって測ったの?」

「このまえ出掛けたカフェでね」

「うん」

「ストローの包み紙で測ったんだ」


(あぁ・・・確かに、なにやらゴチャゴチャとしていたのはか)


「着けてみて」

「あ、うん」

「あ!ちょっと待って!」


 小鳥から指輪を受け取った拓真は、「左手を出して」と真剣な顔をした。小鳥がおずおずとそれを差し出すと、拓真は手を取り、ゆっくりと薬指にオリーブの指輪を嵌(は)めて微笑んだ。


「このシルバーの指輪が燻(くす)むまで一緒にいて下さい」

「・・・・・・・」

「あ、婚約指輪はプラチナだから心配しないで?」

「こんなの」

「あれ、返事は?」

「こんなの、いきなりでびっくりするよ」

「僕もびっくりだよ、このタイミングで言うつもりじゃなかったんだけど」


 拓真は満面の笑みで、小鳥を覗き込んだ。


「小鳥ちゃん、お返事は?どうしたのかな?もしも〜し?」

「・・・よろ」

「・・・うん」

「よろしく、お願いします」


 小鳥の頬は上気(じょうき)し、目尻に涙が浮かんだ。拓真はその身体を抱き寄せた。


「でも、突然どうしたの?」

「だって、があれこれしているんだもの、僕にも意地があるよ!」

「なに、対抗意識なの?」

「だってそうでしょう!」

って言っても同じ拓真なんだよ?」

「そうだけど!なんだか腹が立つんだよ!」

「自分なのに?」

「そうだよ!」


 それは5歳の子どもが駄々を捏(こ)ねているようで、小鳥の目には可愛らしく映った。


(28歳なのに、子どもみたい)


「なに?なにかおかしい事でもあった?」

「あれ?私、笑ってたかな」

「笑ってた!小鳥ちゃんまで馬鹿にして!プンプンだよ!」

「ぷ・・・・プンプン」


 思わず失笑してしまった。


「もう!本当はクリスマスにプレゼントするつもりだったんだ!」

「そうなの?」

「もうひとつ準備しないと!小鳥ちゃん、なにが良い?」


 この瞬間、小鳥の中に拓真への愛おしさが込み上げ、幸せに酔いしれた。小鳥は、両手で拓真の胸を押し戻すと、その驚いた顔を凝視した。


「な、なに。小鳥ちゃん、どうしたの?」

「クリスマスプレゼントはもう貰ったよ」

「どういう意味?」


 小鳥は解いたサテンリボンを拾い上げると拓真の左手の薬指に巻き付け、蝶々(ちょうちょう)結びにした。


「拓真が私のクリスマスプレゼントなの」

「・・・・・え」

「こうして拓真と居られる事が、神様からのクリスマスプレゼントなの」


 横断歩道に転がった黒いスニーカー、夏の青い空に立ち昇る白い煙、辛い現実から目を逸らした、苦しくも悲しい四十九回の朝と夜。それらを塗り替えたこのタイムリープに、小鳥は心から感謝した。


「ありがとう」


 小鳥は指先で拓真の頬を優しく撫で、鼻筋に添って薄い唇に触れた。緩々(ゆるゆる)と撫でるしっとりとした感触。2人の視線が絡まった瞬間、拓真は小鳥に覆い被さった。薄い唇がぽってりとした赤い唇を啄(ついば)み、それは何度も、何度も、飽きる事なく繰り返された。


「ん」


 やがて舌先が前歯を割って口の中に滑り込んだ。それはまるで意思を持った生き物の様に所狭しと這い回る。


「ん、ふぅっ」


 短い息継ぎの後、舌先が互いの存在を確認する様に探り合った。小鳥は拓真の背中に腕を回し自身へと引き寄せた。熱く感じる心臓の鼓動がどちらのものか判別が付かない程の距離に、目眩(めまい)がした。


「・・・・ん」

「小鳥ちゃん、ベッドに行こう?」


 小鳥は小さく頷くと拓真のシャツの裾に掴まって薄暗いベッドルームへと向かった。襟元のボタンがひとつ、ふたつとゆっくりと外されてゆく。小鳥は花弁(はなびら)が1枚、2枚と露わになるのを感じた。高揚感に漂っていると拓真がワイシャツをはだけた。


(・・・・懐かしい)


 小鳥は拓真の浮き出た鎖骨を撫で、腰から肩甲骨に掛けてのラインを摩(さす)り上げた。


「・・・っ」


 拓真の顔が快感に歪んだ。小鳥は、拓真が悦(よろこ)ぶ場所を覚えている。


「小鳥ちゃん、いいんだよね?」

「うん」


 ルームランプの逆光に浮かび上がる横顔。小鳥に翻弄され、堪(こら)えきれなくなった拓真は、小鳥の胸の丘に顔を埋(うず)めた。深く熱い吐息が漏れる。


(バイバイ、


 小鳥はに別れを告げ、その夜、初めて拓真に抱かれた。

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