どれくらいの時間が経ったのだろう。ファンヒーターの微かな音と、時計の秒針の音が響く部屋。霙(みぞれ)はやがて霰(あられ)となり、アパートの屋根に叩き付けた。小鳥はその場で正座をすると、指先を揃えて額を床に付けた。
「小鳥ちゃん、なにしてるの!」
「ごめんなさい」
「やめてよ、顔を上げてよ!」
「拓真を傷付けた事、本当にごめんなさい」
小鳥の声は震えていたが、涙を流してはいなかった。唇を強く結んでいる。大きく息を吸って深く吐いた小鳥は拓真の顔を凝視した。
「私の好きな人は高梨拓真だけです」
「・・・・・」
「拓真だけです」
「じゃあ、なんでいつも
「それは・・」
「やっぱり誰か好きな人が居るんじゃないの?」
「いません」
その口調は力強く、小鳥の強い意志が見て取れた。拓真は、ややそれに気圧(けお)されながらも質問を続けた。
「じゃあ、誰か忘れられない人が居るの?」
瞬間、息が詰まった。小鳥は呼吸を整える様に細かな息継ぎをした。覚悟を決めた。
「います」
拓真は”その言葉は聞きたくなかった”と言う表情で、眉間にシワを寄せて瞼を強く瞑(つむ)った。
「その人は今、どこに居るの?」
「それは、その人は」
「身近な人?」
「亡くなりました」
「亡くなった?死んだの?」
「自動車の・・・交通事故で車に撥(は)ねられて、即死でした」
「・・・いつ」
「2024年の7月7日です、私の目の前で事故に遭いました」
拓真は首を傾げた。
「7月7日、7月7日なら僕と小鳥ちゃんが出会った日じゃない!あの日、小鳥ちゃんはバーベキューに来てたでしょう!?」
「2024年です」
「なにを言ってるの?」
「だから!2024年の7月7日なの!」
拓真は小鳥が何を言っているのか、訳が分からないと言った表情で詰め寄り、その肩を揺さぶった。
「小鳥ちゃん、なにを言っているのか分かってるの!?今は2023年だよ?2024年は来年だよ!?」
「そうなの!来年の7月7日なの!」
拓真の手のひらがローテーブルを激しく叩き、小鳥はその音に驚いて肩を竦(すく)めた。
「嘘を吐くなら、もっと上手な嘘があるでしょう!?」
「嘘じゃない!」
「そんな馬鹿げた話がある訳ないじゃない!」
「本当なの、嘘じゃないの」
小鳥の指先はワンピースのスカートを強く握り、その部分にはしわが寄っていた。予想通り、拓真の表情は強張(こわば)り、口元は歪んでいる。小鳥はショルダーバッグから携帯電話を取り出すと、拓真の目を見据えた。
「拓真、覚えてる?」
「なに?」
「初めてカフェで待ち合わせた時、私の携帯電話を見て驚いていたよね?」
「なんだっけ、覚えてないよ」
「この、aPhone15の発売日は、2023年の9月だったよね」
「そうだっけ?」
「でも、私は2023年の7月に持っていたよね?」
「そうだった、思い出した。なんで発売前に持っていたのか分からなくて、変だと思ったんだ。」
「変でしょう?」
「それはお父さんが契約したからって」
「それは嘘なの」
「嘘?」
「これは私が2024年の1月に買ったaPhoneなの」
拓真の顔は赤らみ、憤りが伝わって来た。
「なに言ってるの!?小鳥ちゃん、吐いて良い嘘と吐いちゃいけない嘘があるんだよ!」
小鳥は携帯電話の画面をタップした。暗証番号は1024、拓真の誕生日だ。カメラロールを遡(さかのぼ)ると、撮影日付が表示された。
「見て」
携帯電話を受け取った拓真は顔色を変えた。
「2024/2/14・・・2月14日?小鳥ちゃんの誕生日?」
「うん、その日、28歳になったの」
「小鳥ちゃんは、27歳でしょ?」
「本当の私は28歳なの」
「本当の?」
画面をスライドさせるとケーキを囲み、笑う小鳥の画像が表示された。真っ赤なイチゴでデコレーションされたバースディケーキのキャンドルは、2と8を形どっていた。28歳を祝うキャンドルだった。
「髪の毛が、今よりも長いね」
「うん、伸ばしていたからね」
「じゃあ、僕の目の前に居る小鳥ちゃんは・・誰なの?」
「2024年の私なの」
「意味が分からないよ!」
拓真の声が大きくなり、小鳥の声も自然と大きくなった。目頭が熱くなる。小鳥は喉の奥が窄(すぼ)まるのを感じた。
「私も分からないの!ベッドで寝ていて、朝起きたら2023年の7月7日だったの!」
「そんな映画みたいな話!」
「そうなの!私の身体は2023年の私で、中身は2024年の私なの!」
「中身ってなに?」
「意識とか、精神とか、心とか、そんな感じだと思う」
「2024年の小鳥ちゃん」
「そうなの」
小鳥の目尻に涙が浮かび、頬を伝って流れた。
「だから全部、知っているの。分かるの」
「なにを知っているの?」
「拓真の誕生日が10月24日だって知っていたでしょ?」
「うん、びっくりしたよ」
「そうだよね、話してもいないのに知ってるんだもん。驚くよね」
「うん、なんで!?って不思議だったよ」
「ブラックコーヒーが好きなのも知ってた」
「あぁ、そうだった」
「あの時、カヌレを薦めたのも、
「そうなんだ」
「うん」
拓真は初めて待ち合わせたカフェでの一場面を思い出して頷いた。
「あとは」
「まだあるの?」
「拓真がひなぎくの大きな花束を持って来る事も知っていたの」
「そうなの?」
サプライズを目論んでいた拓真とすれば残念な告白だった。
「それから訪ねて来る日も、時間も覚えていたの」
「あのカレーライスの日?」
「そう。だから準備していたの。朝からお掃除して、鶏肉を買いに行って、あの大きなガラスの花瓶も買って来たんだ」
「準備していたんだ」
「うん」
「そうだったんだ」
だからカトラリーと2個のグラスがあらかじめ準備されていたのだと、拓真はようやく合点がいった。そして、小鳥が烏龍茶や緑茶ではなく、迷う事なく麦茶をグラスに注いだのも、拓真自身が麦茶を好んで飲んでいた事を知っていたからこその行動だった。
「だから、シチューに舞茸を入れる事も知っていたんだね」
「うん。
「3個、それは凄いね」
「凄いでしょ?」
小鳥と拓真は失笑した。
「あと、べべちゃんなんだけど」
「べべがどうしたの?」
「べべちゃんは私の事を覚えていたみたい」
「べべが?」
「先週、拓真のお家に行った時の事、覚えてる?」
「ああ!べべが小鳥ちゃんに懐いていたよね!あれ、不思議だったんだ!」
「2024年の私なんだけど、拓真のお家に何度も遊びに行っているの」
「そうだったんだ」
「だから、べべちゃんとは仲良しなの」
「べべは小鳥ちゃんが、2024年の小鳥ちゃんだって気が付いたんだね」
「うん」
拓真はべべの動物の勘に驚いた。
「それでね」
「うん」
「ご挨拶に行った日、お父さんが変な格好で出て来て、お母さんに怒られる事も知ってた」
「そうなの!?」
「お父さんが怒られているのを見たのは2回目なの。笑いそうになるのを我慢したんだから」
「そうなの!?」
小さく頷く小鳥の顔を見た拓真は襟足を掻(か)いた。
「なんだか恥ずかしいな、全部お見通しだったんだ」
「ごめんね、黙っていて」
「良いけど、でもやっぱり信じられないな」
「そうだよね」
緊張の糸が解けた拓真は、床に転がり大きなため息を吐いた。
「僕は自分に嫉妬して怒ってたのか」
「そうなるね」
「恥ずかしいな」
「仕方ないよ、
と、そこで拓真の表情が変わった。床に肘を突き半身を起こした拓真は動きを止めた。
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
「2023年、僕は小鳥ちゃんと付き合っていたんだよね?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、2024年の僕は車に?」
喉仏が上下した。