「お邪魔します」
「挨拶はいいから!入って、早く!」
「・・・・・・」
拓真は慌てて革靴を脱ぐと左右に脱ぎ散らかしリビングへと向かった。いつもの拓真ならば靴は正確に左右に揃える。
「すぐにあったかくなるから座って!」
「ごめん、先にトイレ借りていい?」
「どうぞ、あ、手洗いとうがい、忘れないでよ」
「分かった」
拓真はそれだけ言うとファンヒーターのスイッチを押し、寝室から暖かそうなブランケットを持って来た。そして、スーツのジャケットを脱ぎハンガーに掛けると手際良くワイシャツの袖を捲(めく)る。ハンドソープの泡を洗い流した拓真は、ケトルに水を注ぎ入れ、コンロに火を点けた。
「はい、ここ座って」
「うん」
小鳥はファンヒーターの前に座り込むと悴(かじか)んだ指を擦り合わせて暖を取り、拓真はその背中にブランケットを掛けた。
「もう大丈夫?」
「うん、あったかい」
ファンヒーターから吹き出す温風が微かな音を立て、やがてケトルが蒸気を噴き上げ湯が沸いた事を知らせた。
「小鳥ちゃんはココア飲む?」
「飲む」
「冷凍食品だけどホットケーキもあるよ。夕食まだなんでしょう?食べる?」
「ありがとう、食べる」
身体は正直で”ホットケーキ”と耳にした途端、腹の虫が鳴った。小鳥は顔を赤らめたが、ふとある事に気が付いた。ココアパウダーは前に遊びに来た時、全部使い切ってしまっていた。
「あれ?ココアってもうなかったよね?」
「そうだよ、なかったから買い足しておいたよ」
「どうして!?」
「だから、瓶が空だったから買って来たんだけど、駄目だった?」
「なんで!?遊びに来ちゃ駄目なんじゃないの!?」
「どこに?」
「ここに!もう遊びに来ちゃ駄目だと思ってた」
「誰がそんな事を言ったの?」
「・・・誰も言ってないけど」
拓真は冷凍食品のホットケーキを皿に乗せると電子レンジのスイッチを押した。オレンジ色の庫内で丸いホットケーキがゆっくりと回転している。
「だって、拓真怒ってたし」
「怒っていたね」
「LIMEも既読にならないし」
「怒っているからね」
「やっぱり怒ってるんだ」
「怒っているよ」
無愛想な面持ちの拓真は、マグカップにココアパウダーを大盛りでひと匙入れ、少量の湯を垂らした。慣れた手付きでココアを練る。ほろ苦いココアの香りに小鳥の緊張は解れた。
チーーーーーン
電子レンジから取り出されたホットケーキはきつね色で程よい厚みがあった。思わず唾を飲む。拓真は冷蔵庫から小鳥の好きなブルーベリージャムの瓶を取り出すとスプーンですくい、ホットケーキにゆっくりと垂らした。
「はいどうぞ、召し上がれ」
白い皿で湯気を上げるホットケーキの表面には、ブルーベリージャムでにっこりと笑う顔が描かれていた。それを見た小鳥は目頭が熱くなり、思わず目尻に涙が溢れた。
「小鳥ちゃん、折角のホットケーキが塩っぱくなっちゃうよ」
「うん」
「ほら、美味しいよ。召し上がれ」
「うん」
小鳥は涙を堪(こら)え、眉間にシワを寄せながら右手にナイフ、左手にフォークを握った。凍えて白かった指先は桜色に色付き、頬も温かくなっていた。フォークで切り分けたホットケーキを口に運ぶとバニラビーンズの味が広がった。
「美味しい?」
「おいひい」
「良かった」
「ゔん、おいひい」
「泣かないの」
拓真は小鳥にティッシュペーパーの箱を手渡した。小鳥は思い切り鼻をかむと泣き笑いをしながらホットケーキを平らげた。拓真は大きな溜め息をひとつ吐いてブラックコーヒーを飲み干した。
「小鳥ちゃん」
「うん」
「この前はごめんね」
「えっ!そんな謝られる事なんてないよ!?」
小鳥は驚き、ココアのマグカップから視線を上げた。
「折角、作ってくれたシチュー残しちゃって、ごめんね」
「あ、うん、大丈夫」
「スプーンも投げちゃったし。怖かったよね?」
「ちょっと、怖かった」
拓真は眉間にシワを寄せ、もう一度溜め息を吐いた。
「ごめんね、仕事で上手くいかなくて苛々していたんだ」
「そうなんだ」
「ごめんね」
そこで拓真はパイプハンガーに掛かったビニールに包まれたスーツを見上げ、財布を開いた。
「クリーニング代、高かったんじゃない?幾らだった?」
「あ、良いの、そんな高くなかったし」
「そんな訳にはいかないよ、幾ら?」
生真面目な拓真らしかった。
「じゃ、じゃあ3,800円・・・です」
「お釣りは要らないよ」
拓真は五千円札を取り出すと財布を片付けた。
「そんな、お釣り・・」
小鳥がショルダーバッグを開けようとすると、拓真の厳しい声がそれを制した。
「お釣りはいいよ!」
「だって」
「小鳥ちゃん、お釣りよりも大事な事があるんじゃない?」
「・・・・大事な事?」
「僕にとっては大事な事なんだ」
拓真は突然、コーヒーカップや皿を片付け始めた。湯気の消えた小鳥のマグカップには、ココアが半分残っていた。
「拓真、どうしたの?」
「もしかしたら、またお皿にフォークを投げてしまうかもしれないから片付けるよ」
「・・・・・・えっ」
「そんな嘘だよ、冗談だから」
冗談にしては質(たち)が悪い。それ程までに腹を立てているという事なのだろう。小鳥は、拓真の穏やかな気配が潮が引く様に消えてゆくのを感じた。
「小鳥ちゃんは僕に隠している事があるんだよね?」
「う、うん」
「いつか話してくれるって言ってたよね?覚えてる?」
「うん、覚えてる」
「それはいつになったら教えてくれるの?」
「それは、え・・と」
「小鳥ちゃん。今夜、今ここで教えて」
「え」
拓真から、有無を言わさぬ気配を感じた。
「僕は小鳥ちゃんがいつ話してくれるのか、ずっと待っていたんだよ」
「うん、知ってる」
「もう、限界なんだよ」
「限界?」
「小鳥ちゃんを信じたい、けれどもう限界なんだ」
「ごめん」
「別れたくないんだ」
「わか、れる」
それは「別れよう」と言われたも同然だった。小鳥は突然、後頭部を殴られた様な気がした。身体中の血が逆流する。目眩を起こした。顔が火照(ほて)り、口の中が渇いた。呼吸が上手く出来なかった。
「拓真、私と拓真、わ・・・別れちゃうの?」
「そんな事は言っていないよ」
「だって、今、今、別れるってそう言ったよ?」
「別れたくないから、隠している事を言って欲しいんだ」
「・・・・・・」
「小鳥ちゃん、今まで隠していた事を話して」
小鳥はどこからどう説明すれば良いのか迷った。拓真はそんな小鳥の表情の変化を目の当たりにし、”誤魔化そうとしているのか””やはり他に好きな男がいるのか”と邪推した。
「じゃあ、小鳥ちゃんは今日はなにをしに来たの?」
「・・なにをしにって」
「まさかスーツを返しに来ただけ、じゃないよね?」
「それは、そうだけど」
「なにをしに来たの?」
「・・・・・・それは」
窓の外では、霙(みぞれ)が降り始め、激しい風が窓を叩いた。小鳥は膝の上で拳を握った。