小鳥がその背中を追ってエレベーターで1階に降りると、エントランスのコンクリートには拓真の革靴の跡が付いていた。余程、急いだのだろう、歩幅はいつもより広かった。
「うっ、うっ」
小鳥は嗚咽(おえつ)を漏らしながらエレベーターを振り返ったが、それは2階から下りて来た。泣き顔を入居者に見られる事も憚(はばか)られ、小鳥は非常階段へと向かった。非常階段を一歩、また一歩と踏み出す度に涙が溢(こぼ)れ、頬を伝った。
(拓真が、拓真が怒った)
これまで、少し不機嫌な顔をした事もあったが、あれ程までに声を荒げて怒る事はなかった。小鳥は初めての出来事に戸惑い、スプーンを皿に投げつけた拓真の激しい衝動に、恐ろしさを覚えた。
(どうしよう、どうしよう)
力無く部屋の扉を開けると、暖かい筈のリビングを薄寒(うすらさむ)く感じた。そして、拓真が突然居なくなった虚無感に囚われた。
「うっ、うっ・・・うっ」
フローリングの床に飛び散ったシチューをダスターで拭き取りながら手の甲で目尻を拭(ぬぐ)った。ところが小鳥の涙はハタハタと床に落ち、拭いても拭いてもそれは際限(さいげん)がなかった。
(拓真が・・・拓真が、拓真があんな風に思っていたなんて)
シチュー皿とスプーンをキッチンのシンクに運び、水道の蛇口を捻った。流れ出る温水でシチューを洗い流し、キッチンスポンジを泡立てた。指先が震えている事に気が付いた。
(他に好きな人なんて居ないって・・・拓真に言わなきゃ・・・)
けれど本当にそうだろうか?拓真への想いに曇りや迷いはないが、
(どうしたら、どうしたら良いの?)
八方塞がりだった。
(やっぱり言うしかないの?)
けれど、小鳥が「時間が巻き戻った」と伝えたところで、拓真は俄(にわか)には信じないだろう。もしかしたらその場凌(しの)ぎの虚言だと呆れ、蔑(さげす)まれるかもしれない。然し乍ら、今となっては、正直にありのままを話すしかなかった。
(”拓真は来年の夏に自動車事故で死ぬんだよ”、そんな事、突然言われて”はい、そうですか”って納得して貰える筈ないよ?)
そして小鳥自身も説明が付かない、タイムリープという現象。
(”実は、私、2024年の7月からやって来たんです”って言うの?)
夢か現(うつつ)か幻か。そんな戯言(たわごと)を信じて貰える筈がなかった。けれど、もう言い逃れは出来ない。このまま喧嘩別れとなってしまっては元も子もない。小鳥は慌てて携帯電話を握るとLIMEトークの画面を開いた。
ごめんね
家に帰ったの?
ごめんね
おやすみなさい
ところが、数分経ってもLIMEは既読にならなかった。
(どうしよう・・・どうしたらいい?)
ふと見上げたハンガーラックには、雨に濡れた拓真のスーツとワイシャツが掛けられていた。LIMEの返信はない。小鳥はこのスーツを持って拓真に会いに行こうと考えた。
(お店、空いてるかな)
駅前のクリーニング店の営業は終了している。検索アプリで調べると、職場の近くに営業中のクリーニング店があった。壁掛け時計を見ると20:15、営業終了は21:00だ。
(・・・・まだ、間に合う!)
小鳥は慌てて車の鍵を掴むとペールブルーの軽自動車に乗り込んだ。赤信号で車の流れが止まる度に時計を見た。まだ間に合う、まだ間に合う、閉店間際のクリーニング店には煌々(こうこう)と明りが付き、カウンターには鼻にピアスを付けた青年が漫画雑誌を読んでいた。
ピンポーーン
「あ、いらっしゃいませ〜」
「スーツとワイシャツのクリーニング、急ぎでお願いします。何日くらい掛かりますか?」
「1週間、ん〜、5日掛かりますけど、12月13日、宜しいっすか?」
12月13日、丁度良い具合に、その翌日は拓真の公休日だった。
「はい!お願いします!」
「3,800円、伝票に名前と電話番号、お願いしやす」
「はい」
「はい、これ、伝票の控えと200円のお釣りっす」
「宜しくお願いします」
「ありがとうございました〜」
ピンポーーン
何とか間に合った。小鳥はクリーニング店から帰る道すがら、少し遠回りをして拓真のアパートに立ち寄ってみた。運転席の窓から仰ぎ見ると、2階の角部屋205号室のカーテンから明かりが漏れていた。
(拓真ちゃんと帰ってた、良かった。風邪ひかなきゃいいけど)
その時、軽自動車のエンジン音に気付いたわん太郎が吠え出したので、小鳥は慌ててその場を立ち去った。
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12月13日、小鳥は退勤後に拓真のアパートを訪ねた。随分遅い時間にも関わらず、インターフォンを鳴らしても反応がなかった。
(まさか)
拓真に居留守を使われているのではないかと不安になり、駐車場に出てみたがカーテンは閉じられたままで明かりは点いていなかった。安堵した小鳥はクリーニングを終えたスーツを腕に抱え、扉の前に立った。
(遅いな)
20:00、21:00と時間は過ぎていった。業務上、立ち仕事に慣れているとはいえ、寒空に立ち続ける事には苦痛が伴った。小鳥は玄関扉に寄り掛かり、コンクリートの廊下にしゃがんでその帰りを待った。パンプスから冷気が這い上がり、足先から全身が冷たくなってゆくのを感じた。
(・・・・あっ!)
階段を上って来る革靴の音に顔を挙げると、そこには見知らぬ男性が驚いた表情で小鳥を凝視していた。軽く会釈をすると男性も頭を下げ、スラックスのポケットから鍵を出し、201号室の扉を開けた。
(まだかな)
アパート全体に静けさが広がった。拓真がもうこの部屋に戻って来ないのではないかと、あり得ない不安に駆られた。
(・・・寒い)
指先が悴(かじか)んで爪が白くなり、頬に触れると氷のように冷たかった。トイレにも行きたい。
(コンビニでも行こうかな)
けれど、自分が居ない間に拓真が帰って来て、「話もしたくない、もう来ないで」とインターフォン越しに門前払いをされる可能性も考えられた。
(・・・・・寒い、もう限界かも)
足が痺れ、立ったり座ったりを繰り返していると、革靴の音が階段を上って来た。期待するだけ無駄だと思ったが、小鳥はビニール袋が掛かったスーツを強く握り、勢いよく立ち上がった。
(・・・・拓真)
逆光の中、小鳥の姿を見つけた拓真は信じられないといった面持ちで駆け寄って来た。
「小鳥ちゃん!なにしてるの!」
「おかえりなさい」
「ただいまって、いつからいるの!?」
拓真は小鳥の手を握り、その冷たさに驚きの声を挙げた。
「スーツ、クリーニングして来たから」
「ちょっと待ってて!」
拓真の顔を見た途端、緊張の糸が切れた小鳥の顎は音を立てて震え始めた。カタカタと上顎と下顎が噛み合わず、吐く息は白かった。拓真はビジネスリュックを肩から下ろすと部屋の鍵を取り出し鍵穴に挿した。
「入って!もう、なにやってるの!」
「だって」
「車で待っていれば良かったのに!」
「だって、部屋に入れてくれないかと思って」
「そんな事、する訳ないでしょう!?」
拓真は小鳥を部屋に引き入れると玄関の扉を勢いよく閉めた。