自転車のグリップを握る指先が震えるのは、氷雨の冷たさで悴(かじか)んだのか、後悔から来るものなのか、拓真には判別が付かなかった。ペダルを踏む加減が分からず、チェーンリングが激しく軋(きし)んでその場所から一刻も早く立ち去れと言っている。
(くそっ!どうしてこんな事になったんだ!)
拓真は小鳥との交際が始まって以来、彼女の言動に不安を感じていた。常日頃から抱いている猜疑心(さいぎしん)に蓋をして、これまで物分かりの良い恋人を演じて来た。そんな不甲斐ない自分に無性に腹が立った。
「今日はもう帰るよ!」
「拓真、ごめん!待って、ごめんなさい!」
「おやすみ!」
拓真は追い掛けて来る小鳥を遮断する様にエレベーターのボタンを連打した。目の前で閉じる扉、小鳥の顔は色を失い、涙を流していた。それでも決壊した感情は止まらなかった。
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世間で賞与(ボーナス)が支給される12月に向け、自動車保険契約数のノルマが課せられた。自動車販売店やディーラーの決算時期は新車を購入する客が多く、9月、10月の契約実績は悪くなかった。然し乍ら、景気の悪化で新車の買い控えが増え、保険契約数は一目瞭然で落ち込んでいた。
「くそっ!」
拓真は、今日も契約を取る事が出来なかった。同期の佐々木隆二が2件も自動車保険の契約を成立させたと聞き、焦りが出た。小鳥のアパートのインターフォンを押す以前から虫の居所が悪かった。
(今夜はシチューなんだ)
エレベーターの扉が開くとシチューの匂いが廊下の奥から漂って来た。玄関の扉を開けると、デニム生地のエプロンを着けた小鳥が無邪気な笑顔で出迎えた。
「お帰りなさい!寒かったでしょ?」
「あ、うん。ただいま」
暖房の効いた暖かな部屋、キッチンのコンロではペールブルーのホーロー鍋が湯気を立てていた。
「あれ!拓真、びしょ濡れじゃない!早く脱いで、脱いで!」
今朝は小春日和(こはるびより)で気分転換にと自転車で出勤した。ところが夕方になると雲行きが怪しくなり、冷たい雨が降り始めた。それでも”小雨だから大丈夫だろう”と思い自転車のサドルに跨(また)がったが、小鳥のアパートまであと僅かというところで雨は本降りになった。なにもかもが嫌になっていた。
「はい、髪の毛も拭いて!」
小鳥が肌触りの良いフェイスタオルを手渡してくれた。小鳥はチェストの引き出しを開け、長袖Tシャツと薄手のトレーナーを見比べてトレーナーを拓真に手渡した。
「はい、これ着て」
「ありがとう」
拓真は小鳥の部屋に置いてあった自身のトレーナーとジーンズに着替えた。
「急に寒くなったよね」
「そうだね」
「今夜はシチューだよ、あったまるよ」
「ありがとう」
拓真は度々、小鳥のアパートに泊まったが、まだ、
「拓真、今夜は泊まって行く?」
「どうしようかな」
「雨降ってるよ」
「・・・・・・」
「明日、お休みだよね?」
正直、疲れていたので1人になりたかった。けれど小鳥と会うのは久し振りで、小鳥の目は”泊まり”を期待していた。ベッドの傍には敷布団が畳んで置かれていた。拓真の寝床だ。
「じゃあ、泊まろうかな」
拓真がカーペットに座ると、小鳥は冷蔵庫を開けた。
「ビール飲む?」
「今夜はシチューでしょ?シチューにビールは合わないよ」
「そっか」
小鳥は酒を好まない。その為、シチューにどんな酒が合うのか、それすらも分からない。この時の拓真はそんな些細な事にすら苛(いら)ついた。そしてローテーブルに並べられたステンレスのカトラリーと、2個のグラスは
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(あの日)
あれは夏の終わり。拓真がひなぎくの花束を持ち、初めて小鳥のアパートを訪れた時の事だ。ローテーブルの上には既に誰かが来る準備がしてあった。並べられたステンレスのカトラリー、2個のグラス。その日、拓真は小鳥のアパートに行く事を事前に告げていなかった。
(誰か来る約束でもしていたのかな?)
小鳥はカレールーを煮込みながら、携帯電話を操作していた。
(僕が来たから誰かに連絡をしているのかな?)
そこで拓真の脳裏には、他の男性の影が浮かんだ。それもその筈、小鳥は度々、拓真と
(小鳥ちゃん、誰か他に好きな人がいるんじゃないかな)
拓真が
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「はい!シチュー温まりました!お座り下さい」
「あ、うん。ありがとう」
拓真が濡れたスーツをハンガーに掛けて振り向いた。そこには麦茶をグラスに注いでいる小鳥の姿があった。
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(麦茶)
初めてこのローテーブルに座った時も、冷蔵庫に入っていた定番の烏龍茶や緑茶ではなく麦茶をグラスに注いでいた。それはまるで
(それに、ささみのカレー)
カレーライスといえば牛肉、豚肉だろうと拓真は考えた。ところが配膳されたカレールーには鶏のささみが入っていた。小鳥は「鶏肉が好きだから」と言ったがバーベキューでは鶏肉には一切手を付けず、豚バラや牛カルビを好んで食べていた。
(
麦茶もささみのチキンカレーも
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そんな拓真の胸中などつゆ知らず、小鳥は笑顔で拓真の前にシチュー皿を置いた。甘く蕩(とろ)ける牛乳の匂い。拓真はスプーンを手に、それをゆっくりと口元へと運んだ。
「拓真、白舞茸好きでしょ?今日は沢山、入れたからね!」
「舞茸?小鳥はシチューに舞茸を入れるの?」
「え?」
「普通、シチューにはマッシュルームとか椎茸じゃないの?」
確かにシチューの中には白い舞茸が入っていた。
「え、だって拓真は・・・舞茸、好きだよね?」
頭に血が上った。
「僕は言ってない!シチューに舞茸を入れるなんて言ってないよ!」
「え、言ったよ・・・」
「確かに僕はシチューには白い舞茸を入れるよ!でもその事を小鳥ちゃんには言っていない!」
「ええと、それは」
小鳥の戸惑う仕草に怒りを覚えた。もう後戻りは出来なかった。
「それは一体、誰の事!?小鳥ちゃんにはもう1人、好きな人がいるんじゃないの!?」
「そんな事!」
「いつもいつも、いつも僕はその
「それは違うの!」
「なにが違うの!?小鳥ちゃんはその人にも”好き”って言っているんじゃないの!?」
「拓真、それは違うの!」
「違わないよ!」
拓真はスプーンを皿に投げ入れた。パイン材のテーブルに白いシチューが点々と飛び散り、グラスの麦茶が溢(こぼ)れた。
「拓真!」
「今日はもう帰るよ!」
「拓真、ごめん!待って、ごめんなさい!」
「おやすみ!」
拓真はビジネスリュックを背負うと自転車の鍵を握った。革靴に素足を入れると染み込んだ雨が滲み出て気持ちが悪かった。
「拓真!待って!」
拓真は濡れたスーツを置き去りにして小鳥の部屋を飛び出した。小鳥は恐れていたこの日が訪れた事に呆然と立ち竦(すく)み、涙を流した。