思いも寄らない豪華な膳をたらふく平(たい)らげた小鳥と拓真は、和室の畳の上で大の字になった。手足を伸ばした小鳥は我慢しきれず、胃の中のガスを盛大に吐き出した。
ゲフッ!
「ごめん、失礼しました」
「いいよ、我慢すると身体に良くないから」
続いて拓真もゲップをした。
「失礼」
「良いよ」
思わず笑いが込み上げた。
「ねぇ?」
「なに?」
「小さい頃、お婆ちゃんに”ご飯を食べた後に直(す)ぐに寝転がったら牛になるよ!”って言われなかった?」
「田舎に祖母はいるけどあまり行き来がないからなぁ、聞いた事がないよ」
「そっか、とにかく”牛になるよ”って言われたけど、このお腹だと寝転がるしかないね」
「確かに、もうなにもお腹に入らないよ」
「だよね」
拓真が思い付いた様に小鳥を振り返った。
「そうだ!胃を左にして横になると消化が早くなるってテレビで言ってた」
「よし!やってみよう!」
小鳥と拓真は左腹を畳に着け、ホルスタインのように転がった。確かに急に胃腸がキュルキュルポコポコと音を立てて動き出した。
「うわ、本当だ。お腹の中が鳴ってる!」
「面白いね」
「うん、まさに今、消化されていますって感じがする!」
「そうでしょう?」
「うん!」
けれど消化不良を起こしているのは小鳥の方だった。目の前の大きな背中の襟首には、二つの黒子(ほくろ)が縦に並んでいる。それは
(そうだ、
小鳥は畳の上でズリズリと身体を移動させ、拓真の背中にピッタリと寄り添った。
(拓真だ、拓真の背中だ)
温かくて大きな背中、腰から脚に掛けてのライン、柔らかな土踏まず、28.0センチメートルの大きな足、なにもかもが高梨拓真だった。
「え、ちょっ、ちょっと小鳥ちゃん、どうしたの!?」
「ごめん、しばらくこのままでいさせて」
「い、良いけど」
「ごめんね」
源泉掛け流しの温泉の水音、夜の静けさか渓谷の奥底から川の流れを連れて来たような気がした。コオロギの鳴き声。心臓の音。拓真の体温が小鳥へと伝わり、小鳥の血潮が拓真へと移った。
「・・・・・」
不意に身体の向きを変えた拓真は、小鳥を力いっぱいに抱き締めた。
「小鳥ちゃん、なんでそんな悲しそうな顔をしているの?」
「そんな顔してるかな?」
「してる、すごく悲しそうだよ」
拓真の唇が小鳥の唇を優しく啄(ついば)み、その髪に顔を埋めた。耳元に熱い吐息を感じた。
「拓真?」
「小鳥ちゃん、やっぱりなにか僕に隠している事があるよね?」
「そんな事ないよ?」
「僕だって、そんなに鈍感じゃないよ」
「・・・・・・・・」
「小鳥ちゃん、その日が来たらちゃんと僕に話して」
「その日ってなに?」
「僕を信じられる日が来たら話して」
「・・・・・・・!」
「・・・・・お願い」
拓真の声は悲しげで、小鳥の胸は痛んだ。決して拓真を信用していない訳ではない。けれど
「拓真、聞いて?」
「うん」
「私は拓真を信じてる」
「うん」
「大好き。大好きなの。でも
「うん、待ってる」
「拓真、大好き」
「うん、僕も小鳥ちゃんの事が大好きだよ」
「両思いだね」
「当たり前でしょう!」
真剣な眼差しの拓真は畳に肘を突き、小鳥に覆(おお)い被さった。心臓が跳ねる。拓真は、小鳥の額と目尻に口付けを落とし、唇を深く塞(ふさ)いだ。絡み合う舌、拓真の熱い思いが伝わって来た。小鳥もその背中を抱き締め掻き抱き、互いに見つめ合った。小鳥が拓真の手の平に頬擦りし、熱い吐息を漏らした。もう一度軽く啄(ついば)み合う。
コオロギの鳴き声が途絶えた。
「小鳥ちゃん、重いでしょう?」
「うん、ちょっとお腹の辺りがしんどいかな」
「僕も、実はこの体勢はちょっと辛い」
小鳥と拓真は狸の様に膨らんだ腹を摩(さす)り合って失笑した。2人はそのままゴロンと畳に横になり、大の字になって深呼吸をした。
(・・・・あ、あ。眩しい)
仰向けになった小鳥に、天井のシーリングライトは眩しく、夏の白い陽炎(かげろう)を思い起こさせた。小鳥が、交通事故現場の記憶を手繰(たぐ)り寄せていると、拓真が不可思議な事を口にした。
「僕、小鳥ちゃんの部屋に見覚えがあるんだ」
拓真は天井を見上げたまま呟く様に話し始めた。
「小鳥ちゃんの部屋に初めて行った時、なんだか見覚えがあるような、そんな気がしたんだ」
「見覚え?あぁ、そんな事、言っていたね」
「うん。部屋の雰囲気とか間取りとか、ずっと前に来た事があるような、そんな気がしたんだ」
「トイレの場所も知ってたよね」
「うん、トイレを借りた時も何気(なにげ)に分かったんだ。ここだって、身体が自然に動いてた」
「そうだよね。バスルームじゃなくてトイレの扉を開けたから、ちょっと驚いた」
確かに、拓真はトイレの場所を伝える間もなく、自然な動きでそのドアを開けていた。
「それに、バーベキューで小鳥ちゃんを見た時、懐かしい感じがしたんだ」
「懐かしい感じ?」
「どこかで会った事がある様な、そんな気がしたんだ」
「どこかって!?いつ、どこで!?」
「それははっきりと分からないけれど・・・・小鳥ちゃんはそんな気はしなかった?」
「それは・・・・・えっと」
そんな気がしないどころか、小鳥は2人の拓真と会っている。
「会社のコンパで出会ってないかな?」
「私は、あまりコンパに参加しない主義なの」
「それじゃ違うね」
「高等学校はどうかな?」
「私は女子高等学校だったから、違うと思う」
「そうかぁ、文化祭は?」
「文化祭は招待チケットがないと入れないの」
「そんな記憶はないな」
「そうすると、あとは大学だね」
「大学!拓真の通っていた大学の名前は!?」
「僕が卒業したのは、北國経済大学なんだ」
「小鳥ちゃんの大学はどこ?」
「私は、北國学園だったの」
「北國学園!じゃあ、僕のキャンパスの隣だね!」
互いの大学名を教え合ったが、それ以上の細かい話題には至らなかった。
(私、
「じゃあ、サークルには入ってた?」
「うん、入ってたよ」
「私は、読書サークル」
「僕が入っていたサークルは、読書」
小鳥と拓真は二人同時に”読書サークル”に所属していたと言った。
「読書サークル!?同じじゃない!?」
「僕たち、そこで会ってた?」
「覚えがないなぁ」
「うん、ないね」
「それに、僕は幽霊部員みたいなものだよ」
「幽霊部員?」
「佐々木の付き添いで参加していただけだから」
「私も・・・そんな頻繁には参加していなかったな」
「でも、学園祭はふたつの大学で合同だったから、学園祭の打ち上げで小鳥ちゃんの部屋に行ったのかもしれない」
「それは無いかな、その時はまだ実家に住んでいたから」
「そうかぁ、それなら違うね」
現在、小鳥が住んでいる部屋は2022年の誕生日に契約した賃貸物件だ。2018年以前に知り合った大学生の高梨拓真が、この部屋を訪れる機会など絶対に有り得ない。
「う〜ん、絶対、どこかで会った事がある様な気がするんだけどな」
「7月のバーベキューが初めてだよ」
小鳥と拓真の出会いは、2023年7月7日に催されたアパレルメーカーと損害保険会社のバーベキューで間違いない。
「小鳥ちゃん、どうしたの?」
気が付くと拓真が心配そうな顔で小鳥の顔を覗き込んでいた。