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第15話 わくわく温泉旅行

 そこは紅葉(こうよう)が始まり掛けた黄色い橅(ぶな)の樹や、赤い紅葉が目にも鮮やかな渓谷で、流れる川には紅色(べにいろ)の吊り橋が架かっていた。小鳥と拓真が宿泊する温泉宿は坂の一番奥に建っていた。


「小鳥ちゃん、後であの吊り橋に行ってみようよ!」

「・・・え、怖くない?」

「大丈夫だよ、鉄骨だったから揺れないよ」

「本当に本当?」

「多分」

「多分じゃん!」


ブルンブルン


 はらりと紅葉の葉が1枚付いたペールブルーの軽自動車がエンジンを止めると、番頭と思(おぼ)しき年配の男性が暖簾(のれん)を上げて2人を出迎えてくれた。玄関先には趣(おもむき)のある壺が置いてあり、穂の開きかけたススキや竜胆(りんどう)の花が生けられていた。


「うわ・・・・」

「これは・・・」


 御影石(みかげいし)の三和土(たたき)でスニーカーを脱ぐと、なんだか不釣り合いな気がした。よくあるコンビニエンスストアのオープニングセレモニーの副賞だと鷹(たか)を括(くく)っていたが、これが結構高級な温泉宿だった。


「お名前をご記入下さい」

「はい」


 拓真は自分のアパートの住所の下に、”高梨拓真””高梨小鳥”と記入した。小鳥の胸は跳ねた。単に拓真は、小鳥の住所を書く事が億劫だったのだろう。小鳥はそう思う事にした。


「浴衣は自分で選ぶんだね、小鳥ちゃんは何色にするの?」

「ん〜、やっぱり薄い青色かな」

「だよね」

「この花柄素敵だよ、小鳥ちゃんの髪の色に似合うよ」

「そうかな」

「うん」


 拓真は小鳥にペールブルーの身頃に、薄茶で描いた花柄の浴衣を薦めた。


「これ、朝顔かな」

「葉っぱが丸いから夕顔だと思う」

「へぇ、物知りだね」

「これでも理科は5段階で5でした!」

「高等学校の生物じゃなくて理科なの?」

「悪い?」

「別に良いけど」

「じゃあこれにする!」


 膨れっ面をした小鳥だったがすぐに機嫌を直し、男性用の浴衣コーナーに駆け寄った。


「拓真はやっぱり灰色?」

「うん、これが良いかな」

「トンボだね」

「いっぱい飛んでたね」

「うん、飛んでた」


 背の高い拓真はL Lサイズの浴衣を手に取り、小柄な小鳥はMサイズの浴衣を選んだ。

 ウェルカムドリンクは、渋い焦茶の茶椀にきめ細やかな泡が立った抹茶だった。添えられた茶請(ちゃう)けはこし餡(あん)を蓬(よもぎ)の生麩(なまふ)で包んだ麩饅頭(ふまんじゅう)だった。


「うわ、お抹茶なんて初めてなんだけど!」

「僕もだよ。作法なんて知らないよ」

「ええっと。くるっと回して飲むんだっけ?」

「反対回りじゃない?」

「ええ、そうだっけ?」


 小鳥と拓真が戸惑っていると女将(おかみ)が「気張らずにご自由にどうぞお召し上がり下さい」と声を掛けてくれたので、2人は顔を赤らめながら抹茶の苦味を甘い麩饅頭(ふまんじゅう)で誤魔化した。


「お荷物はお部屋に運んでございます」

「はい」

「こちらルームキーになります」

「ありがとうございます」

「ごゆっくりお寛(くつろ)ぎ下さいませ」

「はい」

「お夕飯は18:00で宜しかったですか?」

「お願いします」

「では18:00にお部屋までお持ち致します」

「はい」


 落ち着いた物腰の女将は丁寧で、好感が持てた。


「さて、行きますか」


 深紅の毛氈(もうせん)を辿って行くと渡り廊下があり、ギシギシと年季を感じさせる胡桃(くるみ)の階段を数段上った。


(・・・・・ううっ、生々しい!)


 廊下の奥までズラリと並ぶ格子戸、いよいよ人の気配がない客室が近付いて来た。唾を飲み込んだ小鳥は、さり気なく紅色(べにいろ)の吊り橋へと話を振った。


「うわっ高いね、川がすごい下に見えるよ」

「坂道の一番奥の宿だからね、高低差があるのかなぁ」

「あの吊り橋、あんなに遠いよ?歩いて行くの?」

「う〜ん、明日にしようか?」


 小鳥は拓真の何気ない言葉に狼狽(うろた)えた。


(あしっ、明日!明日の前に今日の夜があるんだよね!?)


 渓谷の高さや今夜のあれこれを思い描いた小鳥の足は、色々な意味で竦(すく)んだ。


「小鳥ちゃん、変な顔してるよ?」

「そ、そうかな」

「うん」


 手に持った檜木(ひのき)のルームキーには”桔梗”の2文字が彫られていた。


「鍵も高そうだね」

「最近のホテルはカードキーだからね、雰囲気があるね」

「あ、ここだ”桔梗”、格子戸を開けるとか時代劇か!」

「小鳥ちゃんはこんなお宿は初めて?」

「うん、初めてだよ〜緊張する〜」


 檜木(ひのき)の格子戸を開けると、次は重厚な胡桃(くるみ)の黒い扉が小鳥と拓真を出迎えた。鍵穴に鍵を差し込み、右に回した。


ガチャっ


 三和土(たたき)に並んだ2足のスリッパは、まずその部屋の広さに驚いた。和室がふた部屋、そしてその奥には、ダブルサイズのベッドが隙間なく並び鎮座(ちんざ)ましましていた。


「る、ルームツアーでもしようかな!」

「そうだね!」


 どうやら拓真も緊張しているらしく声が上擦っていた。2人は意識してベッドルームは素通りし、トイレや洗面所、準備されたアメニティを見て回った。


「トイレは最新式だね!」

「良かったね」

「あ、このスキンケアセット豪華!このブランド、使ってみたかったんだ!」

「良かったね」

「ドライヤーは高級メーカー品だよ!髪の毛が艶々(つやつや)になるんだって!これも使ってみたかったんだよね!」

「良かったね」


 ところが拓真の返事はどこか上の空で、視線はある1箇所に釘付けになっていた。


「拓真、どうしたの?」

「小鳥ちゃん」

「なに」

「何か臭わない?」

「あっ、なに!拓真、おならしたの!?」

「いや、そうじゃなくて」


 小鳥はふんふんと鼻を鳴らした。


「あ、なんだろ、茹で卵の腐ったような臭いがする、なにこれ」


 拓真の喉仏がごくりと上下した。その手は少し錆(さ)びたドアノブを下ろし、ゆっくりとガラスの扉を開けた。


「これ、硫黄(いおう)の臭いなんだ」

「い、硫黄」


 湯煙の向こうには、丁度、大人2人が並んで入れる広さの檜木(ひのき)風呂があった。チョロチョロと流れ出る源泉掛け流しの半露天温泉風呂。小鳥と拓真はその場で息を呑んだ。


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