そこは紅葉(こうよう)が始まり掛けた黄色い橅(ぶな)の樹や、赤い紅葉が目にも鮮やかな渓谷で、流れる川には紅色(べにいろ)の吊り橋が架かっていた。小鳥と拓真が宿泊する温泉宿は坂の一番奥に建っていた。
「小鳥ちゃん、後であの吊り橋に行ってみようよ!」
「・・・え、怖くない?」
「大丈夫だよ、鉄骨だったから揺れないよ」
「本当に本当?」
「多分」
「多分じゃん!」
ブルンブルン
はらりと紅葉の葉が1枚付いたペールブルーの軽自動車がエンジンを止めると、番頭と思(おぼ)しき年配の男性が暖簾(のれん)を上げて2人を出迎えてくれた。玄関先には趣(おもむき)のある壺が置いてあり、穂の開きかけたススキや竜胆(りんどう)の花が生けられていた。
「うわ・・・・」
「これは・・・」
御影石(みかげいし)の三和土(たたき)でスニーカーを脱ぐと、なんだか不釣り合いな気がした。よくあるコンビニエンスストアのオープニングセレモニーの副賞だと鷹(たか)を括(くく)っていたが、これが結構高級な温泉宿だった。
「お名前をご記入下さい」
「はい」
拓真は自分のアパートの住所の下に、”高梨拓真””高梨小鳥”と記入した。小鳥の胸は跳ねた。単に拓真は、小鳥の住所を書く事が億劫だったのだろう。小鳥はそう思う事にした。
「浴衣は自分で選ぶんだね、小鳥ちゃんは何色にするの?」
「ん〜、やっぱり薄い青色かな」
「だよね」
「この花柄素敵だよ、小鳥ちゃんの髪の色に似合うよ」
「そうかな」
「うん」
拓真は小鳥にペールブルーの身頃に、薄茶で描いた花柄の浴衣を薦めた。
「これ、朝顔かな」
「葉っぱが丸いから夕顔だと思う」
「へぇ、物知りだね」
「これでも理科は5段階で5でした!」
「高等学校の生物じゃなくて理科なの?」
「悪い?」
「別に良いけど」
「じゃあこれにする!」
膨れっ面をした小鳥だったがすぐに機嫌を直し、男性用の浴衣コーナーに駆け寄った。
「拓真はやっぱり灰色?」
「うん、これが良いかな」
「トンボだね」
「いっぱい飛んでたね」
「うん、飛んでた」
背の高い拓真はL Lサイズの浴衣を手に取り、小柄な小鳥はMサイズの浴衣を選んだ。
ウェルカムドリンクは、渋い焦茶の茶椀にきめ細やかな泡が立った抹茶だった。添えられた茶請(ちゃう)けはこし餡(あん)を蓬(よもぎ)の生麩(なまふ)で包んだ麩饅頭(ふまんじゅう)だった。
「うわ、お抹茶なんて初めてなんだけど!」
「僕もだよ。作法なんて知らないよ」
「ええっと。くるっと回して飲むんだっけ?」
「反対回りじゃない?」
「ええ、そうだっけ?」
小鳥と拓真が戸惑っていると女将(おかみ)が「気張らずにご自由にどうぞお召し上がり下さい」と声を掛けてくれたので、2人は顔を赤らめながら抹茶の苦味を甘い麩饅頭(ふまんじゅう)で誤魔化した。
「お荷物はお部屋に運んでございます」
「はい」
「こちらルームキーになります」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりお寛(くつろ)ぎ下さいませ」
「はい」
「お夕飯は18:00で宜しかったですか?」
「お願いします」
「では18:00にお部屋までお持ち致します」
「はい」
落ち着いた物腰の女将は丁寧で、好感が持てた。
「さて、行きますか」
深紅の毛氈(もうせん)を辿って行くと渡り廊下があり、ギシギシと年季を感じさせる胡桃(くるみ)の階段を数段上った。
(・・・・・ううっ、生々しい!)
廊下の奥までズラリと並ぶ格子戸、いよいよ人の気配がない客室が近付いて来た。唾を飲み込んだ小鳥は、さり気なく紅色(べにいろ)の吊り橋へと話を振った。
「うわっ高いね、川がすごい下に見えるよ」
「坂道の一番奥の宿だからね、高低差があるのかなぁ」
「あの吊り橋、あんなに遠いよ?歩いて行くの?」
「う〜ん、明日にしようか?」
小鳥は拓真の何気ない言葉に狼狽(うろた)えた。
(あしっ、明日!明日の前に今日の夜があるんだよね!?)
渓谷の高さや今夜のあれこれを思い描いた小鳥の足は、色々な意味で竦(すく)んだ。
「小鳥ちゃん、変な顔してるよ?」
「そ、そうかな」
「うん」
手に持った檜木(ひのき)のルームキーには”桔梗”の2文字が彫られていた。
「鍵も高そうだね」
「最近のホテルはカードキーだからね、雰囲気があるね」
「あ、ここだ”桔梗”、格子戸を開けるとか時代劇か!」
「小鳥ちゃんはこんなお宿は初めて?」
「うん、初めてだよ〜緊張する〜」
檜木(ひのき)の格子戸を開けると、次は重厚な胡桃(くるみ)の黒い扉が小鳥と拓真を出迎えた。鍵穴に鍵を差し込み、右に回した。
ガチャっ
三和土(たたき)に並んだ2足のスリッパは、まずその部屋の広さに驚いた。和室がふた部屋、そしてその奥には、ダブルサイズのベッドが隙間なく並び鎮座(ちんざ)ましましていた。
「る、ルームツアーでもしようかな!」
「そうだね!」
どうやら拓真も緊張しているらしく声が上擦っていた。2人は意識してベッドルームは素通りし、トイレや洗面所、準備されたアメニティを見て回った。
「トイレは最新式だね!」
「良かったね」
「あ、このスキンケアセット豪華!このブランド、使ってみたかったんだ!」
「良かったね」
「ドライヤーは高級メーカー品だよ!髪の毛が艶々(つやつや)になるんだって!これも使ってみたかったんだよね!」
「良かったね」
ところが拓真の返事はどこか上の空で、視線はある1箇所に釘付けになっていた。
「拓真、どうしたの?」
「小鳥ちゃん」
「なに」
「何か臭わない?」
「あっ、なに!拓真、おならしたの!?」
「いや、そうじゃなくて」
小鳥はふんふんと鼻を鳴らした。
「あ、なんだろ、茹で卵の腐ったような臭いがする、なにこれ」
拓真の喉仏がごくりと上下した。その手は少し錆(さ)びたドアノブを下ろし、ゆっくりとガラスの扉を開けた。
「これ、硫黄(いおう)の臭いなんだ」
「い、硫黄」
湯煙の向こうには、丁度、大人2人が並んで入れる広さの檜木(ひのき)風呂があった。チョロチョロと流れ出る源泉掛け流しの半露天温泉風呂。小鳥と拓真はその場で息を呑んだ。