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第14話 はらはら温泉旅行

 拓真が有給休暇を申請した際、周囲から随分と弄(いじ)られた。


「向日葵(ことり)ちゃんと旅行に行くんだ?」

「違う!」

「じゃあ誰と行くんだよ、まさか1人で温泉とかないだろ?」

「そんな訳ないだろ!放っておいてくれよ!」

「はいはい、放置プレイね、放置、放置」

「うるさいな!もう!」


 キャンプ場のバーベキューで拓真が女性に携帯電話番号を教えたという噂は営業部署内で一気に広まっていた。いつも不機嫌そうで女性とのメッセージアプリの交換を断り続けた拓真とはまるで別人で、青天の霹靂(へきれき)だと誰もが驚いた。

 然し乍ら、一番驚いているのは拓真自身だった。どうして小鳥に携帯電話番号を教えたのか自分でも分からなかった。とにかくあの時は、小鳥と繋(つな)がらなくてはならないと思った。


 そして今日(こんにち)に至る。


 高い空に赤蜻蛉(あかとんぼ)が筋を描いていた。夏とは少し趣(おもむき)が違う、青に白を少し混ぜたペールブルーの空には雲ひとつなかった。


(うわぁぁぁ、ドキドキするよ)


 今日は待ちに待った一泊二日の温泉旅行だ。拓真が、一泊分の着替えを詰め込んだ小さな旅行鞄を肩に掛け、アパートの駐車場で待っていると、急に隣の家の柴犬が吠え出した。爪先立ちで伸びあがって見ると、カーブミラーにペールブルーの軽自動車が映った。


(小鳥ちゃんだ)


 軽自動車が路肩に停まると柴犬は火が着いた様に吠え始めた。


「ごめん、待った?」

「大丈夫、今、部屋から降りて来たところだから」

「拓真、鞄、後ろの座席に乗せて」

「あ、うん」


 後部座席のドアを開けると、海外旅行に出掛けるサイズ感のキャリーバッグが積まれていた。その色はペールブルーだった。


「すごく大きいね、小鳥ちゃんはよく海外旅行に行くの?」


 その割にボディには傷ひとつなく、底の車輪も擦れた跡がなかった。


「あ、それね。しん・・こ」

「しんこ?」

「え、あの。将来の為に必要かな〜って思って、セールで安かったから衝動買いしちゃった」


 そのキャリーバッグはとの新婚旅行で買おうと決めていた物だった。旅行鞄を持っていなかった小鳥は、先日、同じ型のキャリーバッグを買い求めた。それは、2025年に拓真と結婚して新婚旅行に行きたいという、祈りにも似た行動だった。


「小鳥ちゃんの将来かぁ」

「な、なに」


 助手席に乗り込んだ拓真の視線に気付いた小鳥は顔を赤らめた。


「小鳥ちゃん、顔、赤いよ」

「赤くないもん!」

「赤いよ」

「もうっ!出発します!忘れ物はないですか!」

「ないです」

「じゃあ出発します!」

「あ、忘れてた」


 拓真は小鳥の頬に軽く口付け、唇を啄(ついば)んだ。


「ちょっ!」

「おはようのキス」

「誰かに見られたらどうするの!」

「そんなの、わん太郎くらいだよ」

「なにそれ、誰の事?」


 拓真は背後(うしろ)を振り返り指を差した。


「えっ、あの犬(こ)の名前なの?」

「わん太郎って言うんだ」

「わん太郎」

「僕もこの前、初めて知ったんだよ。”うるさい!”って飼い主さんが叱ってた」

「名前の付け方を間違えたよね」

「確かに」


 朝の挨拶を終え、2人を乗せたペールブルーの軽自動車はエンジンの音も軽やかに、幾つもの交差点を通過し、高架橋下を潜(くぐ)り抜けた。


「金曜日だから少し混んでるね」

「うん、混んでる」

「運転、気を付けてね」

「任せておいて!」


 金曜日のオフィス街は職場に向かう人で混雑していた。赤信号で停車すると、拓真は、横断歩道を渡るネクタイを締めた男性の姿を見つけ、「今頃みんな会社で働いているんだよね!なんだか優越感を感じちゃうな!」と、既に有給休暇を満喫している様子だった。


「さぁ!高速道路に乗りますよ!」

「大丈夫?」

「任せておいて!」


 市街地から民家が疎(まば)らな郊外へと向かった小鳥の軽自動車は、高速道路のインターチェンジの入り口で通行券を手にした。


「これ、持っていて」

「うん」

「失くさないでね」

「うん!」


 拓真は「これが!これが夢へのチケットか!」と通行券を両手に持って高く掲げていた。かなり有給休暇を満喫している。


「ひゃー!田舎に向かっているって感じだね!」

「タヌキとか出て来るかも!」

「気を付けてね!」

「任せておいて!」


 高速道路の路肩には杉の木立が並んでいた。その天辺(てっぺん)から覗くペールブルーの空は清々しく美しかった。


「わぁ、お天気が良いね!」

「お出掛け日和だよね、僕、秋が一番好きだな」

「秋生まれだもんね」


(あれ・・・僕、誕生日の話したかなぁ?)


「小鳥ちゃん、問題です!僕の誕生日は?」

「10月24日!」

「大当たり!ねぇ、僕、小鳥ちゃんと誕生日の話した?」

「したよぉ」


 拓真は首を傾げた。


「じゃあ、小鳥ちゃんの誕生日は?」

「あっ、酷い!忘れちゃったの!?」

「ごめん、何日だっけ?」

「2月14日のバレンタインデーだよ」


 拓真は小鳥の誕生日を知らなかった。


「あぁ、そうだった、バレンタインデー。0214、携帯電話の暗証番号、小鳥ちゃんの誕生日にしようかな」

「えっ!そんなの私に言ったら意味ないじゃん!」

「僕は清廉潔白、見られて拙(まず)いデータはありません」

「そっかぁ、じゃあ、私も拓真の誕生日に変えようかな?」

「暗証番号、宣告し合うって意味ないんじゃない?」

「私も清廉潔白ですから!」


 笑いに包まれる車内。けれど最近、小鳥と話題が噛み合わない事が増えて来た。特に小鳥が軽自動車を運転している時や、料理で包丁を使っている時など何かに集中しているとそれは顕著に現れた。


(やっぱり誰かと勘違いしているのかな?)


 拓真は微妙な面持ちになった。


「あっ!もうすぐ料金所だ!」


 拓真ははっと我に帰った。


「面倒だなぁ」

「どうしたの?」

「私の車、ETCカードじゃないの。拓真、後ろのショルダーバッグ取ってくれる?」

「これ?」

「それそれ、お財布出して」


 ETCカードを車に搭載していない小鳥は小銭を払う羽目になり、精算にかなり手間取った。後続車から苛々した気配が伝わって来る。


「拓真、50円持ってない?100円でもいいよ」

「あ、ちょっと待って」


 拓真が財布を広げた時、小鳥は見てしまった。ベッドの上 ”今回は敷布団かもしれないが、それは今はどうでも良い” で致す際に必要なゴム製のがカード入れの隙間からはみ出していた。


(えっ、それって、そういう事だよね!そうだよね!?)


 を見付けた瞬間、あまりの現実(リアル)さに小鳥の心臓は跳ね上がり、顔が火照(ほて)るのを感じた。


「はい、50円」

「あ、ありがとう」


 硬貨を受け取る小鳥の手のひらは汗をかいていた。素知らぬ振りで精算機に万札と小銭を投入した。チャリンチャリンと落ちてゆく羞恥心。


「あれ、どうしたの?顔が赤いよ?」

「なんか暑いなぁ」

「じゃ、エアコンもう少し温度下げようか?」

「う、うん」


 高速道路を下りたペールブルーの軽自動車は、稲刈りが始まった田畠(たはた)の一本道を山間(やまあい)の温泉宿に向かって走った。

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