小鳥と拓真は交際を始めたが、アパレル会社に勤める小鳥の週末は忙しく、2人は会えず終いだった。そんな2人は深夜になると携帯電話を握り、互いの息遣いを感じながら過ごした。
「あ、犬が吠えてる」
「お隣の柴犬だよ、よく吠えるんだ」
「遠吠(とおぼ)え?狼みたい」
「救急車が通ったんだよ。でも小鳥ちゃん、狼の鳴き声聞いた事あるの?」
「ないよ!細かいなぁ!突っ込まないで!」
「ねぇねぇ、今日のお客さんね同じ服を5枚も買ったの!」
「それはすごいね」
「そのワンピースね、うちの人気商品なの」
「それって、もしかして」
「そう思うよね!」
「でも、色違いで欲しかっただけじゃないの?」
「そうかな」
たわいない会話は飽きる事を知らず、白い靄(もや)が街を覆い、東の空が白々と明るくなるまでそれは続いた。
「4:00だよ」
「あっ!えっ!そんな時間!?」
「僕、もう、寝不足だよ」
「今日は私、お休みだも〜ん」
「小鳥ちゃんはずるいよ!自分がお休みの日になると長電話するんだから!」
「ごめん、ごめん!」
「今度から電話は1時間だからね、1時間!」
「分かった!」
ただ、この「1時間」が守られる事は1度もなかった。寝不足の拓真は覚束(おぼつか)ない手でネクタイを締め、眠い目を擦りながら満員電車に揺られて出社する羽目になった。
(会いたいなぁ)
拓真は意を決して小鳥に「好きです、付き合って下さい」と告白し承諾を得たが、どこか説明のつかない違和感を感じていた。
(あれはなんだったんだろう)
小鳥が自分を通して
(それに、なんだか変だった)
カフェのテーブルで小鳥は拓真に「会いたかった」を繰り返し、そして手を握った。
(僕は誰かの代わりなのかな)
電車が大きく左に傾き身体を持って行かれそうになった。拓真は両足に力を込め、床を踏みしめた。
(それでも、いい)
なぜかは分からない。拓真は小鳥と初めて出会った瞬間、強く惹かれた。これまで付き合った女性は何人かいたが、ここまで心惹かれた事は1度も無かった。これが一目惚れというものなのかもしれない。それどころか拓真は小鳥に懐かしさすら感じていた。
(誰かの代わりでもいい、それでもいいんだ)
拓真は小さく溜め息を吐いた。
・
・
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拓真が電車で心揺さぶられている頃、小鳥は柔らかな日差しのカーテンを開けていた。青い空に白い雲がたなびいている。それは
(・・・・あっ、暑い)
残暑厳しい朝、寝不足の面持ちでネクタイを締め満員電車で揺られている拓真に、小鳥は心から懺悔した。「今度から深夜の電話は1時間にしよう!」けれどそれは多分、守られない。何故ならば1分1秒でも長く繋がっていたいからだ。
(あ〜あ、拓真に会いたいなぁ)
小鳥は気を取り直してベットカバーを引き剥がし、洗濯機に次々と放り込んだ。夏のクリアランスセールの疲れでベッドに転がっていたいのは山々(やまやま)だが、今日は部屋の整理整頓と大掃除だ。
(・・・だって、絶対、来る!)
記憶を辿ればこの日の夕方、拓真が「小鳥ちゃん、会いたかった」と顔を真っ赤にして部屋を訪れる筈だ。
(拓真はひな菊の大きな花束を持って来る!)
そして1年前の小鳥と
(でも)
ただひとつ気になる事があった。拓真は先日のカフェで花開くジャスミンティーをオーダーした。
「もしかしたら違うのかなぁ」
拓真が
(でも)
もしかして、1年前と全く違う流れで交際が進んだ時、拓真が小鳥にプロポーズしない可能性も考えられた。
(それは嫌だなぁ)
然し乍ら、拓真が黒いワンボックスカーに撥(は)ねられる心配は取り除かれる。
(ふぅ、微妙だわ)
これから起こり得る幾つかの出来事に思いを馳せながら、読み終えた雑誌をビニールテープで結え、廃品回収置き場まで二往復した。
汗だくの首筋をタオルで拭きながら小鳥は姿見(すがたみ)の中の自分を凝視した。顎の下の肉、タプタプの二の腕、Tシャツを捲(めく)りあげて下腹を摘めば軽く1センチはあった。
(・・・・た、単行本くらい?)
まじまじと鏡を覗けば肌も荒れている。髪も伸ばし放題で見栄えが良いとは言えなかった。行きつけの美容院に電話すると午後の予約なら取れると言うのでお願いした。
(そうだ)
1年前の自分はこの数時間後に拓真と口付けするなど思いも寄らず昼までベッドに転がっていた。そして掃除や洗濯もせず部屋は散らかり放題で、小腹が空けばカレー味のカップラーメンにお湯を注ぎ、ポテトチップを食べていた。
(いや、ちょっと待って!私、どんな部屋で拓真とキスした訳!?)
想像するだに恥ずかしく穴があったら入りたい小鳥だったが、ある事に気が付いた。
(・・・・・私も)
知らぬ間に小鳥自身も1年前と全く違う行動を取っていた。