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第25話 天鵞絨

 ランプの光にのみ照らされる薄暗い部屋の中、静かに書類が下ろされる。

 その先にあった机は簡素なものだったが、カーテンを背にした女の目には映らないのだろう。ただ自信に満ちた笑顔のみを、机の向こうへ向けていた。


「如何でしょう、ミスター・ホンスビー。双方にとって大きな利益となるお話です」


 紅のドレスに身を包むメリーアン・リカルドは、キラリとモノクルを輝かせる。

 彼女にこう言われて、喜ばない都市外労働者はいないだろう。オリゾンテ商会と手を組めるということは、彼らにとって成り上がりの道が保証されたことに他ならないのだから。


「……プランニングについての不満はありません。貴女の仰る通り、スクラッパー事業の拡大には理性的な制御が必要となるでしょう」


 にも関わらず、対する男は特に喜ぶでもなく、影の中にあるまま感情の揺らぎすら覗せようとはしなかった。

 尤も、メリーアンにとってもこの反応は織り込み済みであり、彼女はあくまで冷静な男に口元を緩める。

 何もかも思い通りだと言わんばかりに。


「享楽的な無秩序は資源を食い尽くす。故にこそ、鉄道網とスチーマン技術の限界点を見極めた者が、次の資源競争を制することになる」


「貴女は下層から身を立てられたのでしたなマダム」


「ええ、お恥ずかしながら。しかし、今やそれも昔の話ですわ。とてもとても、忌まわしい昔でしてよ」


 紅茶を口にしながら、メリーアンはあっさりと過去を認める。

 父の靴磨きと母の内職で貧しいながらも食い繋ぎ、彼女自身も子どもながらに労働力として家計に貢献せねばならなかった。

 何不自由なく生きる市民が羨ましい。高みから両親を見下す商人が、その更に上にある権力構造が妬ましい。

 メリーアンはただの労働者であることを良しとしなかった。目指す高みの崖に絶望することなく、どんなことにも貪欲に手を伸ばし続けて今がある。

 その生き様は両親以上に泥臭いものだった。故にこそ、優雅たれと考える今の立場では汚点にほかならず、快く受け入れられる話題でないことは確かだ。

 一方の男は、それを分かっているかのように小さく鼻を鳴らす。


「ほお。では何故、貴女は忌み嫌われている過去を、今なお引きずられているのか」


 ティーカップを持つ手が止まり、白い眉が微かに跳ねる。


「――不思議なことを仰いますわ。私に何を思われたのです?」


「最後のダウザー、ヒュージ・ブローデン。お知り合いでしょう」


「あぁアレですか。アレは首輪を失った獣に過ぎませんわ。顔を知っているのも、旧き友が餌付けをしていたからというだけです」


「そんなものの為に、わざわざ時間作るとは。貴女は慈しみ深い方のようだ」


 商売において情報とは、時に優位に、時に逆風となって巡るもの。それを知らぬマダムではない。

 だが、それでも意外ではあった。貴きに連ならんとするこの男が、あの下賤について口を出そうなどと。

 一体何を考えているのか。訝し気に思いながらも、メリーアンはいつも通りに肩を竦める。


「貴方に意識を回して頂くようなことではございません。アレはただ珍しい国外からのお客様を、無下に扱わないようにと――」


「かの旅行者がダウザーと組んでいることを、マダム・メリーアンともあろう方が知らぬ訳もありますまい」


 被せられた言葉は確信だった。そのせいか、自然と皺の入った喉元に力が籠る。

 蔑視。

 男の声を最も端的に表現する言葉は他にないだろう。感情はひたすら冷たく、その上で確実に蔑み拒絶する。


「鉄道会社からの感謝状を得た彼に、貴女は価値を見出した。昔の友好を思い出すように、自らに扱いやすいツールと成り得る価値をです。その結果が、このみすぼらしい机でしょう」


 蹴り壊され、仕方なく別室の物で代替した机。

 それはあくまで、発生した事実を補完する以外の意味を持たない。

 だが、男にはそれで十分だったのだろう。ギシリと鳴いた椅子に、メリーアンは視線を鋭くする。


「貴女はまだ、ダウザーという夢に浮かされた男の背に、消えた男の影を見ているのです。進歩的とは真逆な、錆びついた夢を」


「お待ちくださいませミスター・ホンスビー。この私が、そのような世迷いごとを」


 彼女の否定は男が席を立ったことで押し留められる。

 進歩的を語る彼にとって、メリーアンの抗弁に価値はなかったのだろう。

 薄暗闇の中で、男は懐中時計に視線を落とす。


「失礼、スケジュールが押しておりますので本日はこれにて。本件についてはまた後日、改めてお伺いさせて頂きます」


「――ええ、お待ちいたしておりますわ」


「ゆめゆめお忘れなきよう、マダム。貴き者達が欲しているのは常に、明確な答えなのです」


 大きな扉の向こうへ消えていく男の背を、メリーアンは座ったままで止めようとしなかった。

 ただ廊下に失せていく足音が聞こえなくなった時、彼女は背もたれに体重を預けながらティーカップを持ち上げた。

 紅い水面の中で、感情を持たない顔が揺れている。


「ふん……若造が、警告を投げたつもりでしょうが」


「マダム」


 指を弾くまでもなく、小さくカーテンが揺れる。


「狩人を集めなさい。貴きは新しい毛皮が欲しくて欲しくてたまらないそうですから」


「はい、確かに」


 たったそれだけの会話で、暗がりは僅かな揺らぎを残し気配を消す。

 ただ1人残った部屋の主はようやく立ち上がると、カーテンの向こうに差す町明かりに、冷えた視線を落とした。


「このメリーアンを値踏みしたこと、後悔なさらなければ良いのだけれど。ふふふ」


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