俺ぁ親ってのが居なくてよ。マンホールの中かゴミ箱の横を寝床にしながら、そこらを歩く奴から食い物を盗んで生きてた。
年齢も性別も関係ねぇ。力がある奴が全ての世界さ。身体の弱い奴は食えねぇし病気になって死んでいく。そん中じゃ、俺ぁまだ恵まれてた。
喧嘩じゃ大人相手でも負け知らず、足も速かったから捕まることもない。誰もついて来れねぇし敵わねぇ。仲間なんて邪魔なだけで、群れねぇと何にも出来ねぇ弱いやつの言い訳だと思ってたさ。
そんなある日だ。襤褸を着たチビの二人組がパンを持ってるのを見かけた。姉と弟だったみたいだったし、誰かからかっぱらったのか、それともお涙頂戴で分けて貰ったのか知らんが、どうにせよ俺には関係ない。
「そいつを寄越しなァ。痛い目みたくねぇだろォ?」
悪名高い俺の事を知らん奴なんてこの辺りには居ねぇし、いつも通り置いて逃げると思ってたんだ。
だが、その枝みたいな体した姉は、パンを弟に握らせて逃がすと、俺の前に立ち塞がりやがった。
「あれは弟の分だ。アンタになんて渡さない」
その時は面倒臭いとしか思わなかったぜ? なんたってこの枝っきれみたいな女をぶっ飛ばしてから、逃げた弟を追いかけなきゃならねぇ。これで逃がそうもんなら、他の奴らにも舐められるんだからな。
精々痛めつけてやろうと思ったさ。ビビってプルプル震えてる女が、二度とそんな口をきけねぇ様にな。
だが、いざ殴りかかろうとした時、俺の身体は近くにあった壁までぶっ飛んでた。痛いより先に何が起こったのか分からなかった。
俺の上に影が落ちるまではな。
「大した小僧だ。俺も鈍ったか」
白い髭のジジイだった。
クシャクシャの帽子をかぶってて、継ぎ接ぎだらけの厚いコートを着たそいつが、ステッキを片手に俺を見下ろしてた。
初めてだぜ。コイツはヤバいって本気で思ったのは。
視線だけで分かった。ただの老人なんかじゃない。喧嘩を売っちゃならん相手だとよ。
それでも、俺にはメンツがあった。ゴミの中で生きていく上で、舐められちまったら終わりだからな。
「なんだぁジジイ……邪魔すんじゃねェ!」
まぁそっからは予想通りよ。殴りかかれたのは最初だけ。あっという間にボコボコのボロボロにされて、最後はゴミ箱へ逆さまにぶっ刺された。
その日からだ。俺はそのジジイを追いかけるようになったのは。
最初は舐められたままでいられるかってだけだった。勝てる気もしねぇのに、マヌケなもんさ。
だが、毎日毎日ゴミ箱に刺される日を繰り返してたら、ちょっとずつジジイのことが分かってきたんだ。
ジジイはガキ共にパンを配ってた。毎日毎日決まった時間に、できるだけ平等に切り分けてな。それも、自力じゃ中々食い物にありつけない様な弱っちい奴らによ。
馬鹿じゃねぇのかと思ったぜ。だが、それもずーっと見てると不思議になってきてな。ある日聞いたのさ。
「あんなのに食い物を渡してなんになるんだよ」
そしたらジジイはニヤリと笑って。
「分かってねぇな小僧。弱い奴らを守ってやれるのは、強い奴の特権さ。そんなのをぶん殴った所で漢は上がらねぇ。喧嘩ってのはな、強いヤツをぶっ倒してこそ意味があるもんよ」
正直、狂ってるとしか思えなかったがな。俺にとっての喧嘩は、生きていくための手段でしかなくて、オトコがどうのこうのって言われてもサッパリでよ。
結局その日もゴミ箱にぶっ刺さされて終わったんだが、去り際にジジイは俺を見やがった。
「テメェは獣さ。そのカスみてぇな脳ミソじゃ理解できなくても、本能でよく分かってる。だから、ゴミまみれにされるってのに、わざわざ俺に挑んでくるんだろう? 明日も、明後日も、その次もなァ」
なんでだろうな。ムカついたはずなんだが、その言葉が妙に腹の中へ落ちたのよ。
その日から俺は、ジジイにだけ喧嘩を売るようになった。他なんて目に入らなくなったって言ってもいい。
周りは気味悪がってたが、ジジイは訳を知ってたんだろうよ。ゴミ箱に突き刺すついでに、必ずパンと水が残されてたぜ。
そんなボコボコにされるだけの日が続いて、どんだけ経っただろうな。あのチビ二人組を見かけたんだ。
俺が大人しくなったおかげで、他の奴らが調子に乗り始めてた頃合いさ。何人もの歳上に囲まれて、それでも姉はまた弟の食い物を守ってた。
多分だが、俺はそん時初めて、自分ってのを外から見たんだと思う。足をガクガクさせながら、それでも必死に見栄張ってる姉と、姉を助ける為に人を呼びに行こうとする弟を見て、恥ずかしくなったのさ。
気がついたら飛び出してたぜ。ジジイ以外相手に久しぶりの喧嘩だった。
ボコすのは簡単だったぜ。頭数は居ても全員俺より遥かに弱っちい奴らだったからな。問題はそこじゃねぇ。
全員ぶっ倒した後でポカンとしてる姉に、なんて声をかけていいかわかんねぇのさ。昔のこともあってあんまりにもバツが悪ぃから、もう黙って立ち去ろうとしたんだが。
そしたら、後ろから服の裾を掴まれてよ。
「……助けてくれて、ありがと」
多分、アイツも口下手だったんだろうな。自分の分だろうに、ポケットから取り出した小さい飴を、俺に押付けて走り去っちまった。
生まれて初めてだったぜ。誰かに感謝されるなんてよ。
だが、おかげでジジイの言ってた言葉の意味がストンと落ちたんだ。漢ってのはこういうもんだってよ。
■
「どっこいしょーぃ」
配管系から切り離された大柄なタンクを、チェーンブロックで吊り上げる。
後はコイツをトロッコに乗せて、坑道の行ける所までゴロゴロ押していき、終点から耐圧ホースを伸ばしてオールドディガーに繋ぐだけ。
その繋ぐだけ、が尤も厄介な気もしているが、圧力充填は必須な為俺達に選択肢はないのだ。
「なるほどねぇ……なんていうか」
トロッコの上にタンクを下ろしていれば、反対側から支えていたサテン・キオンは神妙な顔をしてこちらを見つめてくる。
「ンだよ」
大して面白くもない自分の過去を聞いたとて、何が出てくるものでもないだろうに、やけに真剣な口調に釣られて作業の手を止めれば。
「ヒュージ君って、結構チョロいよね」
世界から音が消えた。通路では野人達が忙しなく走り回っているというのに、俺の耳には何も聞こえてこない。あるいは、俺の耳が音を聞くことを拒否していたのかもしれない。
深呼吸を1つ。目の前には悪びれもしない微笑みを湛えた雇い主。だから俺も精々笑顔を作ってやった。
「ヒャッヒャッヒャッ! 売られた喧嘩なら、女が相手でもキッチリ買っちゃうぞォ」
「いやいや、これでも褒めてるつもりだよ」
どこがだよ、と軋むように首を傾ける。顔面に貼りつけた笑顔が青筋と一緒に取れなくなっている気がするが、今回は俺のせいじゃあないはずだ。
しかし、サテン・キオンには笑いながらキレるこちらの圧力さえまるで応えないらしい。だって、と言いながら組んだ腕と顎をタンクに乗せると、どこか含みのある微笑みで俺を見た。
「私の頼みを聞いてくれたのもエルツを助けたのも、不似合いな程義理堅いポリシーがあったから、でしょ?」
「あ? あー……いや、まぁそりゃそうなんだが」
頭が急激に冷えた気がした。お陰で自然と唇がぐにゃりと曲がる。
「もしかして、他にも何かあるの?」
どこか興味深そうな顔に、俺はそっと顔を背ける。
サテン・キオンの依頼を受けた時は、彼女の言う通りポリシーに従ったつもりだ。しかし、今回もそれだけかと問われれば嘘になる。
何せエルツは。
「……ツラ構えが似てたのさ。あん時の姉とよ」
他人の空似なのは疑いようもない。エルツとあの姉は肌の色も瞳の色も違うのだ。
それなのに、怖くて怖くて堪らないという顔をしてる癖に、逃げようとせずに俺の前に立った時の顔が、俺には妙に重なって思えたのである。
我ながら柄にもないことをしたものだとは思う。だが、怪我の手当ての借りを踏み倒すよりはよっぽどいい。
と、腹の中で決めていたことを思い返していれば、へぇー、ふぅーん? なんて妙な声が鼓膜を揺さぶった。
「なーるーほーどー、だから最初からあんなに優しかったんだァ」
「なんだよその反応は。言いたいことあるなら言えや」
ニマニマしている顔を睨みつける。だが、さっきよりなお俺の圧は響かないらしく、彼女は一層笑みを深めてみせた。
「ふふふっ、べっつにー? あ、でもさ、そんなに気にしてたんなら、その小さな二人組さんとは今も会ってたりするのかな?」
「いや、俺がダウザーだったジジイに弟子入りしたのもあるが、アイツらもどっかの孤児院だかに引き取られたとかでそれっきりさ」
いきさつもその後も知らないし多分としか言えないが、少なくともマンホールの中やゴミ箱の影よりは、余程いい環境で暮らせていることだろう。運が良ければ市民様として働けているかも知れない。
フッと零れる笑みに、サテン・キオンは何を拾ったのだろう。軽く肩を竦めて目を細めた。
「そっか。どこかで会えるといいね」
「べっつに要らねぇよ。昔の話だ――っと?」
俺達は揃って坑道の方を見る。
ほんの僅かだが、しかし確かに感じられた揺れ。
「今のって……」
カビの生えそうな昔話の時間は終わり。ここからは楽しい楽しい鉄火場だ
さっきのが足音だとすれば、答え合わせは俺にもできる。
「キヒヒッ! どーやらあのクズ共、最初っからここを奪うつもりで来てたらしいな」
「急ごう!」
「っしゃあ! どいてろよ!」
重量フックを外したチェーンブロックもそのままに、俺は蒸気タンクが寝転がったトロッコの機関車へ飛び乗った。
蒸気圧を充填されているそいつは、ボロい見た目の割に加減弁を操作すればすんなりと動き出す。
大した速度は出なくとも、車輪を軋ませ黄色いランプで暗がりを制圧しながら、野人たちの行き交う坑道を突き進んだ。
そんな中、不意に訪れた他より明るい空間で、聞き覚えのある声が耳に届く。
「長老、奴らです! スチーマンの中型1機、小型が3機、生身が10人以上!」
「若いのが帰らんから出張って来おったな。二号坑道だ、モタモタしてる余裕はないぞ!」
細い指にトントンと肩を叩かれる。尤も、合図なんて貰わなくとも、考えていることは同じなのだが。
軽めにブレーキを引けば、ちょうど明るい場所に出たところでトロッコはギィと音を立てて止まった。
窮屈に身体を屈める俺を尻目に、雇い主様は足取りも軽く跳び下りるや、ウルフカットのロングヘアを揺らしながら指揮を執る初老の男へ歩み寄っていく。
「ミスタークラッカ、状況はどのように?」
「先遣隊だろう。想定より数は少ないが小型機が多い。坑道内まで入り込むつもりだ」
「だとすりゃ向こうのが断然早いな。てか、そっちから来てるんじゃ、途中で鉢合わせちまうぞ」
ただでさえ、こっちはまだ充気も済んでいないのだ。坑道内での迎撃とれなれば、大型スチーマンに出番はない。
どうするつもりだと首を傾ければ、クラッカは大して面白くもなさそうに顎をしゃくった。
「この先を曲がって暫く進めば第三斜坑だ。あの場所が気付かれることはなかろう」
「そりゃおあつらえだ。だが、斜坑ってのはこいつで押し上げられるくらい緩いのか?」
「古い捲揚機(まきあげき)がある。オペレーターも行かせてあるから、すぐに動かせるはずだ」
「中に入った敵はどうされるおつもりですか?」
ギラリと光った細い目に、背中をゾワリとした感覚が走る。
「なぁに、怖いもの知らずの連中には、炭鉱がどういう場所かを教えてやるまでのことよ」
腹を括った男の顔がそこにあった。年季に刻まれた皺を歪め、獰猛に笑いながら。