この世に蒸気の恩恵を受けぬ人のあるものか。
我らの文明は清涼なる水、石炭よりもたらされる熱、それらを合わせて生み出される圧力をもって目覚ましい進歩を遂げた。
巨大な産業機械の歯車を動かし、都市に柔らかい明かりをもたらし、食事を温めること1つにさえ蒸気が使われる。
当たり前の景色と誰もが思ったことだろう。だが、それが永遠なることはなかった。
大地を埋め尽くさんばかりに拡大された文明は、満たされぬ空腹を訴え続け、ついには無限に思われた石炭を食い尽くす。
蒸気のない生活など最早人々にできはしない。だから、まずは手近に蓄えていると思われた同族を手にかけた。
だが、考えることは皆同じ。ほんの僅かな備蓄を巡って、
世界を覆った人口は急激に数を減らし、辺りは廃墟となった文明都市の残滓が風によって朽ちていくのを待つばかり。
人類は確実に、そして速やかに滅びの道を辿っていた。
しかし、遥か古から彼らと共にあった大地がその姿を憐れんだのか、とある転機が訪れる。
蒸気間欠泉の発見である。
文明の最盛期には遠く及ばない蒸気量。大地を覆いつくす程の都市は支えられずとも、失われつつあった人々の営みを繋ぐには事足りた。
間欠泉国家。各地に散らばった我々の文明は今、大地から噴き出すこの恵みによって支えられている。
これは果たして人類を永遠たらしめるエネルギーであろうか。あるいは、期限の見えない執行猶予であろうか。
私は明確なる答えを持たない。
■
「だからこそ、私達はヒーローになれるって――ねぇ聞いてる?」
ふがっと鼻が鳴る。
同時に重たい瞼の向こう一杯に、不服そうな顔が映りこんだ。
「あぁん? なんてェ?」
「聞いてなかったね」
ふわりと遠のいていく甘い香り。ぼんやりした頭の奥で、そういえばこいつ女だったなと思い出す。
にしては少々距離感がおかしい気もするが、多分そういう奴なのだろう。あるいは掘っ立て小屋以上に狭苦しい貨車の座席のせいか。
身体は伸ばすに伸ばせない空間なので、とりあえず大きく欠伸を1つ。
「ちゃーんと聞いてたぜぇ、途中まではなァ。ガキを寝かしつけるにはもってこいだ」
「……ま、別にいいけど」
サテン・キオンは頬をむっつりとさせたまま、申し訳程度に取り付けられた窓に頬杖をつく。
だが、景色を眺める時間はなかったらしく、足元でブレーキが甲高く鳴いたかと思えば、列車は大きく揺れて止まった。
窓の隙間に視線を送っても、野生動物やレイルギャングに襲われたような雰囲気はない。
砂に埋もれそうな線路がいくつか見える辺り、多分目的の駅だろう。
そう思った瞬間、建付けの悪いドアが激しくノックされた。
「丙貨物スの35。下車予定だろう、サッサと降りろ」
停車して間もないというのに、随分と働き者な駅員だか車掌だかが居たものだ。
面倒臭ぇと欠伸を噛み殺し、ポケットに突っ込んでおいた未熟なリンゴを取り出して齧る俺を尻目に、サテン・キオンはいそいそと荷物をまとめてドアを開いた。
「やぁ、すまないね。少し寝入っていたんだ」
「ちんたら動きおって、これだから都市外作業員は……ふむ」
髭面の鉄道員は、金モールを垂らしている辺り駅務員なのだろう。拝み手で頭を下げる彼女を一瞥するや、見下すように鼻を鳴らした。
お前も都市の外で働いているのだから似たようなものだろうが。と言いたいが、鉄道は間欠泉国家同士を繋ぐ物流の中心であり、社会的な見られ方は大きく異なる。
社会的な立場が違う上、ここは法の目がほぼ届かない都市の外。となれば、腰を低く出たサテン・キオンに対して、遠慮もなく全身を舐めまわすように見られる訳だ。
「……何かな?」
「鉄道にとって時間は命である。分かるな女? それを遅延させたとなれば、貴様ら程度にはとても払えん補償金が必要になる訳だ」
くるりと髭を触り、流し目を送る駅務員。市民様の癖に馬鹿な奴も居るものだ。
ゆっくりと静かに扉から外へ出る。もう駅務員の目にはサテン・キオンの体しか映っていなかったのだろう。影を落としてもまだ流暢に喋り続けているではないか。
「しかし、節度ある態度を見せるならば、私がなんとかしてやらんでもない。どうだ? ん?」
「そりゃ結構だなァ?」
声をかけた所で、ようやく自分が暗がりに立っていることに気付いたらしい髭男は、至極鬱陶しそうな様子でこちらを振り返る。
ただ、目が合った瞬間、そいつの顔から血の気が引いたのが分かった。全くもって面白みのない反応だ。
「な、なな……なんだ、貴様は」
「あ、彼ね。私の連れ合いなんです」
「悪ぃなァ、話遮っちまって」
連れ合い、と言われると釈然としないが、サインすると言ったのは俺なのだから流しておく。
改めて駅務員の髭男を見下ろしながら舌を出せば、奴は襟を軽く正してから、偉そうにコホンと咳払いを1つ。
「あ、あー、私はだな、その、あれだ。君らの起こした遅延行為についての――」
パァンと音を立ててリンゴが砕け散る。あぁ勿体ない勿体ない。
その破片の1つが、どうにか体裁を保とうとしたであろう男の帽子に降りかかった。
「あぁ悪ぃ悪ぃ。最近力加減が下手糞でよォ。で、なんだっけェ?」
「……か、貨車は、最奥の待避線にお願いします」
耳を寄せて見せれば、今までの態度が嘘だったかのようにか細い声が届いた。耳のいい俺には十分な音量だったが。
「ヒャッヒャッヒャッ! 安心してくれよ、俺も素人じゃねぇんだ。ちゃあんと列車の邪魔にならないよう片づけとくからよ」
軽く手を振りながら駅務員の隣を通り抜ける。小さく震えていたのは見間違いではないだろう。
自分より弱そうな奴にしか舐め腐った態度を取れない腑抜けが。声ばかり偉そうに叫ぶ奴のなんと下らないことか。まだ殴り合いができるスクラッパー共の方がいくらもマシだ。
「後で怒られそうだけど、大丈夫?」
トントンと弾むような足取りで追いかけてきたサテン・キオンの顔が、視界の片隅に生えてくる。
「ハッ、こっちはキッチリ金払ってんだ。駅に着いた途端から舐めたこと抜かされる言われはねぇぜ」
「やってることはチンピラなのに、言ってることは意外とまともなんだよなぁ……」
何故だろう。腕を組んで首を捻るこの女が、誰より失礼な気がしてきた。
自分がアウトローであることは、流石に否定できないが。
■
無火機関車は甲高い汽笛を鳴らし、長い貨物を引いて駅を出て行く。
それを眩しそうに見送るサテン・キオンを尻目に、俺は入れ替え用機関車を借りて待避線の奥へと押し込んだ貨車から、重たい幌を取り払っていた。
現れるのは、錆び付いた色合いの無骨な鋼。古ぼけていながら、鈍い重さを失わないそいつの腹に、俺は足を踏み入れる。
革張りの座席に腰を下ろし、スナップスイッチを幾つか弾き、ニキシー管とインジケータランプに光が灯ったことを確認。上下からツタのように伸びる数多のレバーに手をかける。
「主タンク蒸気弁解放、各部蒸気シリンダー圧力充填、加減弁3分の1、安全弁確認」
圧の抜ける音を聞き、じわりと動く圧力計の針に目を光らせる。管の詰まりやソレノイドバルブの動作不良はなさそうだ。
昔教えられた通りのことを、今は体に染み付いたやり方でこなすだけ。最後は尻と背中に伝わる振動を頼りに、俺は1本だけ赤く塗られたレバーを、力いっぱい奥へと押し込んだ。
「既定圧確認! 動力歯車せつぞぉく!」
あらゆる音が消えた。
押し込んだレバーはそのまま、俺も体を動かさない。
数えること5秒。風船の口を少しづつ開くかのように、シューという音が大きくなったかと思えば、次の瞬間にはそんなものが気にならないくらい、コックピットの中はガチャガチャした騒音に包まれた。
「キヒッ! 上等な目覚めだなァ、相棒」
蒸気エンジンが最初の唸りを落ち着ければ、ニキシー管が電圧の確立を伝えてくれる。じわりとペダルを踏み込めば、脚の圧力シリンダへと繋がるソレノイドバルブが連動した。
古ぼけた巨体は、各所からオーバーフローした蒸気を僅かに吹き出しつつ、伸びをするように立ち上がる。
生身より遥かに高く、大きく開けたモニター越しの視界に一息つけば、ホームの上からこちらを見上げる人影が映りこんだ。
『わぁぁ……あははっ! こりゃすごいや。外で見たら本当に大きいなぁ』
まるで無邪気な子どもである。先日の涙を溜めた策士っぷりが嘘のようだ。
いや、年齢は聞いてないから、もしかすると身体の成長が早いだけで本当に子どもなのかもしれない。
なんて考える癖に、スピーカーから響く喜んでいるような声色には、何故か鼻の頭が痒くなる。
「へっ、お褒め頂きどーも。さっさと乗れよ」
内心照れながらぶっきらぼうに言い放つ。
すると、拡大されたサテン・キオンの顔に、明らかなクエスチョンマークが浮かび上がった。
『乗るって、どこに? 流石に座席とかないよね?』
ニヤリと悪い笑みが零れる。
この仕事に対して、俺が乗り気でないのは今も同じ。だが契約は契約だ。こっちから手を切るつもりは無い。
だが、向こうが嫌になるなら話は別だ。
「あるっちゃあるぜぇ? 俺様の後ろに、ボロッボロの荷物置き替わりがなァ」
何処の国出身だか知らないが、このオールドディガー。綺麗所のお嬢さんを同乗させることなんて、全く想定していないのだから。