商店街は夕方になると多くの人で賑わう。特に今日はセールス日なので歩くのも一苦労だ。時に押され、時に押して、酷い時は人波に流されて違う道を歩く羽目になるわけで。
現在、僕は路地裏の細い道にしゃがみ込み、一時休憩していた。
「……あー、疲れた……スーパーに突入する主婦の波に飲まれた時は本気で死ぬかと思った……」
大通りでは絶賛セール中のスーパーへ大勢の主婦達が群がっている。店の前に出されていた商品は既に空っぽで、店内では争奪戦が繰り広げられている。
いつも穏やかな母達は値引きや特売を聞くなり、瞬く間に苛烈な戦士へと早変わりするとは聞いていたけれど……セールって、もしかして怪異の一種ではなかろうか。
「大通りは混み合ってるし、まだセールは終わらないし……うん、ここは素直に道を変えるか」
遠回りになるけど仕方ない。手に提げているコンビニ袋にはチョコプリンが十個も入っている。なるべく冷たい状態で神様に食べてもらうためにも足を動かそう。
そう決めて、ふと路地裏の方へ視線を向けた時。道のど真ん中にナニカが佇んでいた。
「 あたりましょ?
あたりましょ?
あたりましょ?
あたりましょ? 」
そいつはリズミカルに同じ台詞を連呼していた。姿形は普通のサラリーマンだ。でも声は何十にも重ねたような響きがあり、聞いていると脳がキーンとしてくる。あれだ、かき氷を一気に食べた時のような感覚に近い。
加えて眼窩は真っ黒で目玉がないし、歯茎は剥き出しだし、涎が垂れているし、なんとも不気味で生理的嫌悪感を催させる。
唯一の美点は歯並びがいいくらいだろう。隙間なくガッチリと揃っていて、肉を噛みちぎるのに凄く便利そうだ。
「道を変えようと思った矢先にこれだよ。いい加減にしてくれないかな、ほんとにもう」
溜息混じりに後頭部を掻く。怪異か幽霊かはさておき、退いてくれれば御の字だけど、どうやらその気配は感じられない。なにせ、ずーっと同じ台詞を繰り返して、熱い眼差しを僕に向けてきているのだ。こちらの出方を待つタイプ。完全に受け身の姿勢である。
近づいてこないのは助かるけど、どうするか……確か他の小道だと、森までもっと遠回りになっちまうし……。
「あたりましょ? あたりましょ?」
覚悟を決めて大通りを進む……いや、無理。他の店もセールしてるだろうし、下手したら人酔いして吐いちまうかも。
「あたりましょ? あたりましょ?」
いっそ一旦、家に帰るか。それで明日のお供えの時に今日の分も追加しておけば神様も許して……くれないよね、うん、自殺行為だな。
「あたりましょ? あたりましょ?」
とりあえず、神様に一言連絡を……いや、別にいいか。
「あたりましょ? あたりましょ?」
「あーくそ! さっきからうるさいな! そんなに当たりたいなら、そっちから来いや!」
思わずツッコミをしてしまったけど、変わらず怪物は連呼する。大通りの喧騒も相まって、頭の痛みが酷くなっていく。
もし追ってくるなら適当に逃げ切ってやるつもりだったのに、微動だにしない怪物が少し腹立たしい。
つーかさ、なんで路地裏なんかにいやがるんだよ……あ、いや、それは獲物を確実に仕留めるための手段だからだよな。前に神様も言ってたし。
いやでもさ、この怪物そんな強そうに見えないし、僕なら簡単に倒せるんじゃないか……駄目だ駄目だ、気軽に触ったら何をされるか。
あぁくそ、それにしても苛立つなぁ。馬鹿みたいに同じ言葉を吐きやがって。なんか顔もムカつくし。頭痛いし。
いやいや落ち着け。なんだこれ、なんで僕はこんなにイライラしているんだよ。
「あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ?」
額から汗が噴き出してきた。体は寒気で体温を奪われているのに、腹底から無意味に湧き起こる怒りが臓器を熱くさせる。
神様への連絡よりも。大通りへ引き返すことよりも。
今は一刻も早く、怪物に近づきたい。殴りたくて、ぶつかりたくて仕方がない。
「やめろやめろ、動くなよ僕。また
いや命握られてるので殺されても文句はないんだけど、せめて望んだ形で殺してもらいたい。
怒りとか妬みとか、そういう負の感情で神様との関係を終わらせたくないのだ。
だから必死に我慢する。両足を地面にくっつけたままを維持する。耳を塞ごうとしたが、怪物の連呼が頭に染み付いているせいで上手く手が動かせず、せめてもの抵抗として顔を逸らした。視線は再び大通りへ。スーパーでお母様方が戦う姿を注視するという、側からみればどこぞの変態さんだけど、命に関わるので他人の目なんか気にしていられない。このまま抗っていれば、そのうち体が慣れてくるはず。今しばらくの辛抱だ。
「ちょっと、なにするのよ!」
ふと、大通りから女性の怒鳴り声が聞こえた。セール品の取り合いをしているのだから、言い争いが起こるのは不思議じゃない。けど、怒鳴り声は一つだけではなく、何人からも上がっていた。それも連続的に。
「はーい、邪魔、邪魔。おら、おら、どいてどいてー」
原因は一人の中年男性だった。男は大通りを歩く人達とは逆方向に進んでおり、向かってくる相手に自ら体をぶつけている。
少し太った体型なためか、当たっても本人は足が揺らぐことはなく、逆に当てられた側が弾かれる始末。なんとも悪質な嫌がらせである。
「あーもー、邪魔だなー、こんなところに来んなよなー」
わざわざ喧騒に負けない声で男が声を上げる。まぁ誰がなにしてようが、こちとら命の攻防の真っ最中なので関係ない。
……関係ないんだけど。なんの悪戯か、当たり屋は僕がいる裏路地の方へ足を進めている。
え、嘘だろ。こっち来るのか。今はご遠慮願いたい。面倒臭い。来るな、来るな、来るな……。
「はぁぁぁー、疲れたー。セールかなんか知らねっけど、他所でやれってんだ」
ですよねー分かってましたよ来ちゃうって。男は大袈裟に息を吐き、わざとらしく肩を揺らした。
そして自然と、僕と目が合う。
「うわっ、は、人がいたのか。びびったぁ…………こんなところに座るんじゃねっての」
最後の文句は聞かなかったことにして、僕は僕で自分のことに集中する。で、男はそのまま路地裏の先へ進んでいき、当然ながら怪物と遭遇することに。
決してムカついたからとか、そんな理由でわざと引き留めようとしなかったわけじゃない。多分。
「あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ?」
「は? なにお前。頭イカれてんのか? そこどけよ」
「あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ?」
「どけよ、おい。舐めてんのか?」
「あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ?」
「意味わかんねぇ。きっしょ」
男は思いっきり怪物に肩をぶつける。衝撃を与えられた怪物は路地の壁に背中を打ち付け、それを見た男は鼻で笑う。
「はっ、ざまぁ。情けねぇな」
そんな台詞を捨てて男は路地の先へと進み、角を曲がっていった。後に残ったのは、正面から横向きに体勢が変わった怪物と、しゃがんで痛みに耐える僕。
……はっ。今なら道が開けているし、僕も通り抜けられるのではないか。
乗るしかない、このラッキーウェーブに! 僕は急いで立ち上がる。
その時。
「 あたった 」
ポツリと。怪物が呟いた。
「 あたった! あたった! あたった! あたった! あたった! 」
それはさながら欲しいものを手に入れた子供のようで、怪物は無邪気に、盛大に、目と口を鎌の刃以上に歪めて喜んだ。
怪物の目的は果たされた。だからか、さっきまで獲物に指定されていた僕は頭痛から解き放たれている。
だとしても、とても進ませてくれそうな雰囲気じゃない。迷いは不要。僕は後退り、大通りへ身を投じようとする。
ここで初めて、
「あ な た も あ た る ?」
怪物は今までとは違う言葉を吐いた。歓迎しますと言わんばかりの、悍ましい嗤い顔を向けながら。
「…………」
当たり前だけど、答えはノー。僕は無言で首を振る。
そうして目を瞬かせた後。怪物の姿は綺麗さっぱり消えていた。
◇
神様にチョコプリンを捧げた後の帰り道。夜を迎えた商店街は静けさを取り戻していた。
とはいえ完全に人がいないわけではなく、チラホラと何人かは道を行き交っている。
普段は七時くらいに森へ行き、商店街を歩くのが深夜近くになる。そのせいか、人を見かけると少し新鮮な感覚を覚える。
「人がいる夜も落ち着くけど、やっぱり一人で歩ける深夜が最高に気持ちいいか」
深夜はいい。まるで世界に自分一人しかいないような特別感が味わえるのだ。これで怪物と遭遇するリスクがなくなれば完璧なのにね。
「そういや、あの路地裏の奴ってまだいるのか?」
ふと思い浮かんだ疑問。危ない目に遭ったというのに、なんて危機感のなさか。僕は警戒心を働かせずに路地裏を目指す。
また神様にズボラだの愚か者だの言われるだろうけど、これも性なのだ。僕は怪物とは関わらずにはいられない。
僕という人間は生まれた時から怪物によって歪められている。人間の性根は、そう簡単に変えることはできないのだ。
だけど学習能力はある。だから路地裏へと続く曲がり角に到着しても足を踏み入れたりはせず、顔だけ覗かせることにした。
「 あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ? あたりましょ? 」
……いた。相変わらず同じ台詞を繰り返している。けど、夕方に見た時とは明らかな違いがあった。
声も表情も全く同じで、不気味で、気持ち悪くて、嫌悪感を与えるのも同じなのに――その姿形は、あの当たり屋のものだった。
「
気のせいか、別の声が混じって聞こえるような。それになんか、涎だけじゃなく涙も流し出しているし……。
可哀想な気持ちはあるけれど、自分から怪物に当たってそうなったのだ。自業自得。第一、もう助からない。
人に体をぶつけるという迷惑行為をしていたクズ男の末路としては相応しいのかもしれない。
けど、この男が怪物に当たってくれたおかげで僕が助かったのかもしれないし。
お礼の一つぐらいは言っておこう。
「えーと……なんか、ごめん」
うん、僕も中々にクズだった。