「はぁ…」
私は小さくため息をついて、机に置かれたヘッドセットを見つめた。薄暗い部屋の中で、唯一光を放っているこのヘッドセットだけが、私の唯一の希望だった。現実の世界は、何もかもが鬱陶しい。学校でも家でも、私の居場所なんてどこにもない気がしていた。
机の上には、未完成の宿題が山積みになっている。周りは私を見下しているような気がするし、何をやっても上手くいかない。
「これじゃ、変われない…。何も変えられない…」
そんな思いが頭をよぎる度に、私の心は重く沈んでいく。
だけど、ここでなら――。
「ここでなら…私は変われる」
私は決意を込めてヘッドセットを手に取った。これはただのゲームじゃない。私にとっては、現実から逃げ出せる唯一の場所なんだ。
勢いよくヘッドセットを装着し、ベッドに横たわる。ログインのコマンドを声に出すと、視界が暗転し、ふわふわした感覚が体中を包んだ。重力が消え、体が浮かぶような。そして次の瞬間、目の前には広大な大地と青空が広がっていた。
「うわぁ…」
思わず声が漏れた。目の前に広がる草原は、現実では到底味わえない美しさだった。風が吹き抜け、草が揺れる音さえもリアル。足元の土の感触まで伝わってくる。まるで、ここが本物の世界みたいだ。
「ここでなら…私も強くなれる、変わるんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。この世界では私はただの私じゃない。自分を変えるために、このゲームで強くなるんだ。
まずは、アバターの設定を進める。黒髪のショートカットにスリムな体、目はくりっと大きくて、眉毛も細いし、なによりすっごくカワイイ。名前はエリス。職業はフェンサー。剣士としての姿は、私がずっと憧れていた理想の姿だ。
「これが私…けっこう、いいんじゃない?」
空中に浮かんだミラーに映る自分に少しだけ笑ってみせる。ここでは、自信が湧いてくる気がする。
さぁ、冒険の始まりだ。
草原に一歩踏み出すと、何かが目の前に飛び込んできた。
「あれ…敵?」
目の前に小さなスライムが揺れている。戦闘のチュートリアルの雑魚モンスターだ。
「まずはウォーミングアップだね!」
剣を手に取り、戦闘態勢を整える。
「やあ!」
叫びながら剣を振り下ろすと、スライムはあっけなく崩れ去った。風船が割れたように消えてしまった。
「ふふ、なんだ。簡単じゃん」
少し肩透かしを食らった感じだったが、初めての戦闘は気持ちよかった。
その時、突然風が吹き、何かが背後から近づいてきた。
「え…?」
振り向くと、そこには巨大な狼のモンスターが立っていた。目の前のスライムとは全然違う、威圧感のある姿だ。
「くっ…!」
私は剣を構えたが、足がすくんで動けない。このリアルな感覚に、ゲームだということを忘れそうになる。狼の目が鋭く光り、次の瞬間、猛烈なスピードで私に襲いかかってきた。
「速い!」
私は反射的に横に飛び退き、その一撃をかろうじてかわした。
「どうする…このままじゃやられる…」
心臓がバクバクと鳴り、恐怖が全身を支配する。だが、ここで逃げるわけにはいかない。
「この世界で…私は強くなるんだ!」
自分に言い聞かせ、剣をしっかりと握りしめた。
狼が再び突進してきたその瞬間、私はとっさに背後に回り込み、全力で剣を振り下ろした。
「やった!」
背中に鋭い一撃が命中し、狼はうめき声をあげて倒れ込んだ。息を切らしながらも、私は勝利の感覚に浸った。
「これが…私の戦いだ…」
その時、ふと背後から声が聞こえた。
「なかなかいい動きだったね」
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは青い髪の少女だった。彼女は私をじっと見つめ、優雅に微笑んでいた。
「誰…?」
思わず口にしてしまう。彼女は私よりもずっと美しい。キャラメイクの実力差ってここまで出るものなのか。この世界に完璧に溶け込んだ存在のように見えた。青い髪が風になびき、瞳はまるで宝石のように輝いている。
「私はノア。君、なかなかやるね」
彼女は軽く笑いながら私に近づいてきた。
「あれ、初見殺しなのよ? 才能あるんじゃない?」
「ありがとう…」
でも、心の中では複雑な気持ちが渦巻いていた。彼女の堂々とした立ち振る舞い、そして完璧な容姿。自分とは全く違う。私は彼女のようにはなれないんじゃないか、そんな不安が胸をよぎった。
「君、一人で冒険してるの? 名前は?」
ノアが興味深げに尋ねてきた。
「エリス、です。いま、はじめました…」
私は正直に答えた。現実でもそうだった。いつも一人、誰かに頼ることなんてほとんどなかった。
「そうか…なら、一緒に行かない?この世界は広いし、危険も多いからさ」
ノアは手を差し出してきた。その優しい笑顔に、私は少しだけ安心した。一緒に行動するのも悪くないかも。
「うん、そうだね…よろしく」
私はノアの手を取った。彼女は本当に私とは違う。でも、だからこそ、彼女と一緒にいることで強くなれるかもしれない。自分を変えるために、もっともっと強くならなきゃいけない。
「じゃあ、行こうか」
ノアが軽やかに歩き出す。その背中を見つめながら、私は強く決意した。この世界で私は変わる。強く、かわいく、そして自信を持てる存在になるんだ。