「危ない、シャケ美さーーーんっ!」
男は女に体当たりをする。普段なら、このような蛮行は許されるわけもない。だが、男は女に体当たりをすることで、彼女の窮地を救ったのである。女は大海原を優雅に泳いでいたのだが、そこに罠が仕掛けられていることに気づいていなかったのである。
「あ、ありがとう、シャケ夫さん。もう少しで人間たちに捕まるところだった……」
そう。その罠とは人間と呼ばれる種族が海に設置した『定置網』だったのだ。魔のトライアングルと呼ばれるその地に1歩、胸ヒレを踏み込めば、二度とその地から出ることは叶わないと言われている。
「いや、感謝されることなんてしてないよ。俺はただ、シャケ美さんが危ないと思ったから、自然と身体が動いちまっただけだから」
「シャケ夫さんったら、謙遜しなくてもいいのに。でも、ありがとう。本当に助かったわ」
シャケ夫はシャケ美に感謝されて、背ヒレが舞い上がりそうであった。しかし、ここはやはり紳士らしく、相手に見返りを求めない心こそが大事だとシャケ夫は思うのであった。
しかしながら、そうは言っても、シャケ夫の精子貯蔵庫は今やはち切れんばかりに膨れ上がっていた。今は人間たちのいうところの10月末である。シャケたちにとっては産卵時期が間近に迫っており、しがないオスの1匹でしかないシャケ夫は情けないことに毎晩、ちょろっと白い体液をお漏らししてしまっている。
そんな痴れ者であることを、横で華麗に泳ぐシャケ美には今はまだ知られたくない。願わくば、札幌市を流れる豊平川を遡上し、辿り着いた生まれ故郷の地で、シャケ美に告白したいのだ。
彼女が自分を受け入れてくれるかは、まだわからない。だが、彼女はシャケ夫がシャケに生まれ変わる前に心惹かれていた幼馴染の面影を思い起こさせてくれる。
「おいおいおい。見せつけてくれるじゃねえか。しかし、貴様が俺様のシャケ美を人間どもの罠から救ってくれたのだけは感謝してやるぜ」
そう言うは、シャケ夫よりもひとまりサイズが大きいシャケ男爵であった。元々の名前は『シャケ男』なのであるが、その横柄な態度と上から目線のために、周りのシャケからは『シャケ男爵』と呼ばれていた。
シャケ男はこの呼ばれ方が悪口とは気づいておらず、シャケ男爵と呼ばれるようになってからは、余計に横柄な態度が鼻につくようになる。
「だれがあんたの女なのよっ! 行きましょ、シャケ夫っ!」
シャケ美はそう言うと、シャケ男を置いて先へと泳いでいってしまう。そりゃツレナイぜ……と嘆息するシャケ男は一度、シャケ夫を睨みつけ、彼女の後を追いかけていってしまう。シャケ夫としては彼女と並んで泳いでいきたいのだが、シャケ男に尾ヒレで叩かれることはわかりきっているので、なるべく彼から少し離れた後をついていくことにする。
「何やってるのよ、お兄ちゃん。シャケ美さんをシャケ男爵に盗られちゃうわよ?」
「シャケ子……。そうは言ってもだぞ。シャケ男はこの群れの中じゃ一番ヒレ力が強いんだ。俺がシャケ美さんに近づいたら、どうなるかくらいわかってるだろ?」
「本当、お兄ちゃんは能力はあるくせに、臆病なせいで全然それを活かせてないじゃないっ! あたし、そんなお兄ちゃんのために産卵したいなんて思わないっ!」
シャケ子はそう言うと、一ヒレ先に泳いでいってしまう。一匹取り残されたシャケ夫は苦渋に満ちた顔になってしまっていた。シャケ夫自身もわかっているのだ。自分はシャケとしては似合わぬほどの能力の高さを持っていることを。だが、生前、彼は生まれ持った能力にあぐらをかき、暴力を頼みに生きてしまった。そのため、抗争相手に刺客を放たれて、その命を落としてしまったのである。
だからこそ、生まれ変わった今生では、なるべくシャケの和を保とうと努めたのである。しかし、彼は妹の言わんとしていることもわかる。結局のところ、男は欲しいモノがあるならば、勝ち取らねばならない。相手がどんな強敵であろうが、立ち向かわなければ手にはいることは無いのだ。
シャケ夫は自然と両の胸ヒレに力が入ってしまう。そして、心に再び炎を宿し、尾ヒレをたくましく左右に振ってみせる。
(シャケ美たちに追いつこう。そして、俺は俺の為すべきことを成すんだっ!)
シャケ夫はこの時、群れの後方に位置していたが、覚悟を決めたと同時に先頭へ追い付くべく、その泳ぐスピードを上げていく。そこに何が待ち構えているかも知らずにだ……。
「シャケ美、逃げろぉぉぉ! 奴が出やがったっ!!」
「シャケ男っ! だめっ!」
シャケ夫が先頭に追い付きそうになると同時に、シャケ男爵とシャケ美の悲鳴が耳に突き刺さることとなる。シャケ夫はその眼で見たのだ。水中をかき分けるように飛び込んでくる獰猛な爪を持つ真っ黒で大きな手を。
「ガーハハッ! 今年も律儀に戻って来てくれて、あたしゃ嬉しい限りだよぉぉぉ!!」
獰猛な爪が生える手を振りかざすはシャケの天敵である熊であった。そして、その熊たちの群れを従えるは
「ベア子っ! 貴様、生きていたのかっ!」
「あらあら。その声は……。稚魚の時に見逃してやったシャケ夫じゃないの……。嬉しいわねえ。あたしゃに喰われるために肥え太ってくれていたとはねえ。ヨダレが溢れてくるわよぉ?」
ベア子とシャケ夫たちは因縁の中であった。第53回豊平川遡上隊はベア子率いる熊の集団に襲われて、その半数を失ってしまったのだ。運良くシャケ夫たちの両親たちはベア子の魔の手を逃れはしたが、それでも心に深い傷を負っていたのだ。
「お兄ちゃんっ! シャケ男爵がっ!」
シャケ男爵は熊の一団に既に囚われてしまっていた。そして、その身体を木の幹ほどある両腕により、無理やり半分にへし折られ、そこから内臓が飛び出していた。
「逃げろ……。シャケ夫……。シャケ美さんを連れて……」
シャケ美は水中からシャケ男爵の身がへし折られる姿を見せつけられて、その場からヒレをヒト掻きも出来ずにいた。彼女の眼は死んだ魚の眼のようになっていた。シャケ夫はそんな彼女に体当たりを食らわし、無理やり彼女をその場から動かす。
シャケ夫に体当たりを喰らったことで、彼女は
「生きて豊平川を遡上してきて……。そこで伝えたいことがあるの……」
「ああ、わかってる。だから、今は逃げてくれ。ここで俺がベア子を引き受けるからっ!」
シャケ美は再び尾ヒレを動かし、一直線に豊平川を遡上していく。自分の愛する男がきっとベア子をなんとかしてくれると信じてだ。彼女は泳いだ。段々と水深が浅くなっていく豊平川の川底に腹を打ち付けながらもだ。
そんな彼女の口とエラを通り、どこか懐かしい水の味を感じる。生まれ故郷に流れる川の水であることに気づいたのだ。シャケ美と同じく難を逃れた女たちはその地で必死に願った。愛する男たちがベア子の魔の手から逃れられることを。そして、自分たちの産卵した卵に、その誇り高き精子をぶっかけてくれることを。
それから三日後。生まれ故郷に男たちが帰ってくる。皆、身体には無数の傷がついており、熊たちとの戦いが凄惨だったことをシャケ美に伺わせるには十分であった。シャケ美はその男たちにシャケ夫がどうなったのかを聞き回る。
だが、男たちは一様に背ヒレを左右に振るばかりだ。シャケ美は絶望感に押しつぶされそうになる。
「お兄ちゃん、どこにも見当たらないね……」
シャケ美の隣で泳ぐシャケ子がそう呟く。
「遅くなってごめんな。シャケ美さん、シャケ子……。ベア子に尾ヒレを引きちぎられちまってな?」
ついにシャケ夫が故郷の地に現れる。
「シャケ夫っ!」
シャケ美は泣きながらシャケ夫を胸ヒレで抱き寄せる。彼は満身創痍となっており、傷が無い部分を探すほうが難しい。しかし、そんな姿になりながらも、シャケ夫はシャケ美の下へ帰ってきた。シャケ美は今ほど神に感謝したことは無かった。
「へへっ。シャケ美の顔を見ていたら、急に身体から力が抜けていく……。こりゃ、ぶっかけまではできなそうだ」
「お兄ちゃん、何情けないこと言ってるのよっ! 最後のひと絞りくらい、頑張りなさいよっ!」
シャケ子はそう言うと、兄であるシャケ夫の身体を支え、シャケ美が産卵した卵の前にまで連れていく。シャケ夫は暗くなっていく視界の中、その卵たちがまるで積み上げられた宝石のように輝いているように見えた。
前世では手に入れれなかった嫁とその子供たち。シャケ夫はこの世から去る間際に手に入れることとなる……。