「ただいま」
夏乃さんのバイクに乗って家の前へと帰ってきた俺はそう口にしながら中に入る。これから夏乃さんのプチ旅行に付き合わされる事になったため準備をしなければならない。
だがその前に絶対やっておかなければならない事がある。それをやらなければ厄介な事になりかねないため超重要だ。
俺は玄関で靴を脱ぐとそのままリビングへと向かいテレビを見ながらくつろいでいた母さんに声をかける。
「母さんただいま」
「あっ、結人おかえり。これから夏乃ちゃんと旅行に行くんだって?」
「ああ、しかもどこかの誰かがうっかり許可なんか出したせいで泊まりだぞ」
俺は母さんに少しだけ嫌味を込めてそう言った。親なら不純異性交友になりかねない男女の外泊を許可するなよ。まあ、俺と夏乃さんがそういう関係になる事はまずあり得ないが。
「どこへ行くかは知らないけどせっかく行くんだから楽しんでおいで、それとお土産もよろしく」
「本当母さんはいつも通りだな……」
俺からの嫌味に気付いていないのかそれとも気にしていないのかはよく分からないが母さんはニコニコと笑顔を浮かべていた。そんな母さんの様子にすっかり毒気を抜かれた俺はさくっと本題に入る。
「……それで今回の旅行の件なんだけど兄貴には黙っておいて貰えるか?」
「確かに夏乃ちゃん大好きな綾人には言わない方がいいかもね」
もし俺と夏乃さんが二人きりで泊まりがけの旅行へ行く事を兄貴に知られたら血の雨が降りかねない。だから口が軽そうな母さんに対してはしっかりと口止めをしておく必要があった。
「冗談抜きで兄貴に半殺しにされかねないから口が裂けても絶対言わないでくれよ」
「分かったわ、私も可愛い息子二人が血みどろの争いをするところなんて見たくないし」
「頼んだぞ」
まだ少し不安もあったがひとまず母さんを信じよう。俺はそんな事を考えながら自分の部屋に入るとリュックサックから不要な荷物を出して泊まりで必要そうなものを詰めていく。
そして準備を済ませた俺は素早く家の外へと出る。兄貴はまだ部活中のはずだが万が一早く帰ってきて鉢合わせでもしたら面倒だ。
「お待たせしました」
「じゃあ早速出発しよう、このまま駅に行ってそこからは電車で移動するから」
「……あれっ、夏乃さんは泊まりの準備とかは出来てるんですか?」
夏乃さんからヘルメットを受け取ってタンデムシートに座ろうとしていた俺はそんな事が気になり始めた。本屋で偶然会ってからずっと一緒に行動をしているため夏乃さんは家には戻っていない。
「ああ、リアボックスの中にお泊まりセット一式が入ってるから大丈夫だよ」
「もしかして普段から持ち歩いてるんです?」
「うん、たまに友達の家で遊んでそのまま泊まったりする事があるからそれで常に準備だけはしてあるんだよね」
なぜ持っているのか疑問だったがそういう理由なら納得出来る。俺とは違い友達の多い夏乃さんなら突然誘われて泊まるような事もあるに違いない。
夏乃さんは俺がタンデムシートに座ってヘルメットを被った事を確認するとバイクを発進させた。それからしばらくして駅に到着した俺達は駐輪場にバイクを停めて構内に入る。
「そう言えばまだ行き先を聞いてないんですけど、一体俺はこれからどこに拉致されるんですか?」
「拉致だなんて人聞きが悪いな、今回のプチ旅行の行き先は箱根だよ。急に芦ノ湖を見たくなってさ」
「箱根って事は二時間くらいかかりそうですね」
「そうだね、とりあえずここから新宿駅まで行ってそこからロマンスカーに乗れば後は乗り換え無しで行けるから」
箱根へ行くのなんて子供の頃以来でかなり久々だな。そんな事を思いながら改札を通り抜けて新宿方面のホームへと向かう。そしてやって来た電車に乗って新宿駅を目指して移動し始める。
「……夏乃さんは相変わらず人気者ですね」
「急にどうしたの?」
「ほら、周りからの視線がめちゃくちゃ凄いので」
美人でスタイルの良い夏乃さんは電車内にいる男性達の視線を完全に独り占めしていた。隣にいる俺に対しては恨みや妬みのような視線を向けられているため居心地は非常に悪い。
「ああ、いつもの事すぎて全く気にしてなかった」
「俺も一度そんなセリフ言ってみたいです」
まあ、どこにでもいそうな普通の外見をした俺が夏乃さんほど視線を向けられる事など絶対に無いと思うが。
「結人なら知ってるとは思うけど人気者っていうのも本当に大変だよ」
「確かに今までめちゃくちゃ苦労して来ましたもんね……」
「うん、勝手に嫉妬されたり敵視されたりするのは本当に勘弁して欲しい」
人気者というのはアンチも数多く存在しており夏乃さんも例外ではなかった。最近はだいぶマシになったようだが小学生の頃はかなり嫌がらせを受けていたのだ。
今はかなり強くなった夏乃さんだが昔は学校に行けなくなる寸前まで精神を追い詰められていたような時期もあった。
ちなみに夏乃さんほど酷くは無かったものの兄貴に対しての嫌がらせもあったため人気者が必ずしも幸せとは言えないに違いない。