サメだ。
居間にサメが居る。
父の定位置に収まっている生き物は、どこからどう見ても、サメだ。
沙保里は、新聞読みながらテレビを聴いている生き物を呆然と見つめた。
頭部はサメである。
全体のざっくりした質感もサメである。
サメに手と足が生えているような人間の頭部をサメに挿げ替えたような不思議な生き物が、父のスウェットを着て目の前に居た。
サメ人間が新聞をめくる。
指と指の間にはエラがあり、カエルのような手をしていた。
サメの手なのにカエル状なのはなぜだ?
そんな疑問が沙保里の胸の内に湧かないでもなかった。
が、そんな愚かな疑問は受け付けませんよ父は、という強い拒絶を感じさせる手が目前にある。
そのカエルのような手が、また新聞をめくった。
「おー、沙保里。いつまで突っ立ってるんだ? 座るなら座れよ」
サメが、父の声で喋った。
「えっ……とぉ……」
どうしたものか。
戸惑いが波のように沙保里を襲った。
相手がサメだけに、沙保里は戸惑いの波を被ってマグロにでもなってやろうかな、と思ったが無理だ。
感情の波が過ぎ去った後には、砂浜に残された貝殻のように戸惑いだけが残された。
「あ、おねーちゃん」
後ろから、聞き慣れた声が響いた。
弟のマサルだ。
沙保里は助かったとばかりに振り返った。
が。
そこに居たのは、小ぶりのサメだった。
「マサル……お前、どうした」
沙保里は、戸惑いをそのまま声にしてみました、といった感じの口調で呟いてマサルを見つめた。
可愛い弟だったハズのマサルは、小さな体にサメの頭を持つ不思議生物と化していた。
「ん、サメ。サメになっちゃった。見て見て、おねーちゃん。歯がいっぱいあるから虫歯になっても平気なんだよー」
子供らしい無邪気な感想を言いつつ、マサルはパカッと口を開けて姉に見せた。
沙保里が、イヤ怖いからいいです、とか思ったとしても仕方ない。
いくら可愛い弟のものとはいえ、ギザギザの歯が奥の方まで並んでいるサメの口には恐怖しか感じない。
「あら、沙保里。そこにいたの」
暢気な母の声が響く。
振り返れば母の姿も思った通りサメになっていた。
どうした、みんなっ!
なにがどうしてそうなった!
沙保里は叫びたい気持ちだったが、それをしたら危険だと野生の勘がピコーンピコーンと赤い警告ランプと共に鳴り響くので、自分をおし止めた。
いや実際、どうしたみんな。
言い出したものか、スルーすべきか。
迷いに迷う沙保里を嘲笑うように、父が口を開いた。
実際、肩を震わせながら笑っている。
「変な顔―。お前、笑える。気になることがあるなら、聞きゃいいのに。水臭い」
笑っている姿もサメである。
それは、それは、なかなかのホラーである。
「あら、お父さん。沙保里がびっくりして固まってるでしょ。意地悪ねぇ。普通に言えばいいのに」
母がクスクス笑いながら言う。
意地悪度で言えば母の方が上ではないか?
沙保里はそう思ったが、もちろん口にはしない。
目の前でケタケタ笑っている母の口元が怖い。
「あのね、あのね、おねーちゃん。ボクが教えてあげる~ 」
「いや、大事な話だから。おとーさんから言うね」
父が弟を静止して説明を始めた。
「おとーさんの友達の、星野っていたろ? ほら大学教授の。あいつがさー最新研究の成果だっていう薬を、特別に分けてやるっていうのよ。それ飲めば異常気象も楽々、健康維持に長寿にと万能だっていうからさー。それを、みんなで飲んだわけだよ」
おい、オヤジ。
そんなこと安易に決めてんじゃねーぞ。
沙保里は心の中で突っ込んだが、父の口元が怖かったので言葉にはしなかった。
「そしたらさー。サメになっちゃった」
なっちゃった、じゃねーよ父っ。
可愛くないから。
オッサンはただでさえ可愛くないのに、サメだから。
むしろ恐怖の対象だから。
可愛いポーズをとって誤魔化してんじゃねぇ―。
「サメ―。なっちゃったー」と弟が言えば「私もサメー。なっちゃったー」と母も追従する。
お気楽に追従してんじゃねーよ、母ー!
「丈夫になるっていうからさ。お前も飲めヨ。沙保里」
嫌じゃ。
そんな薬を飲めとか、軽く言うな父よ。
娘は本日、長年お付き合いしている村上君よりプロポーズを受けたんだよ。
ご機嫌で帰ってきたのだよ。
それなのに。
なんで娘をサメにしようとしてんのじゃ、父よ。
「沙保里も飲みなさいよ。サメになると楽よ? お肌の手入れとか、髪型の心配も要らないし」
「虫歯の心配もなくなるよー」
母よ、弟よ。
それでいいのか?
沙保里は疑問に思った。
「いいじゃないか、沙保里。家族仲良くサメになろう。減るもんじゃなし」
減るわっ。
色んなモンがすり減るわっ。
沙保里は叫びたかったが、家族一同の口元が怖くて言えない。
「ボク、お腹へったー。早くご飯にしよーよぉ」
「そうね、お腹へったわね。早くお薬飲んじゃってよ、沙保里」
空腹を訴える弟をダシにして母が言う。
「そうだな。腹へったな」
「おねーちゃん。おねーちゃんっていい匂いするね」
弟ー。
今の状態でそのセリフは危険が過ぎるー。
自分が飲み込まれる危険を避けるため、もちろん沙保里は言葉を呑み込んだ。
「ぴんぽーん」
「あ、お客さん」
不穏なまでに家族に詰め寄られ身の危険を感じていた沙保里は、そそくさと玄関に向かった。
そして沙保里は見た。
サメの姿で玄関にいる村上の姿を。
「いやーごめん、沙保里。俺サメになっちゃった。サメになっちゃったけど、結婚相手は俺でいい? 」
「……」
沙保里は無言のままコクリと頷いて、父に渡された白くて大きな錠剤をゴクリと飲み込んだ。