東京・渋谷のスクランブル交差点。人々が忙しなく行き交う中、一匹の赤茶けたキツネが、まるで当たり前のように二本足で歩いていた。
誰も気づかない。なぜって?
みんな自分のスマートフォンに夢中だから。
キツネの名前は、コンちゃん。
彼……もしくは彼女にとって、人間社会に紛れ込むのは朝飯前。毛皮のコートを着て、尻尾をズボンに隠せば、あら不思議。立派な人間のフリができちゃうんだ。
ある日、コンちゃんは会社に向かう途中、エレベーターに乗り込んだ。狭い空間に詰め込まれた人間たちは、相変わらずスマホを見つめている。コンちゃんはため息をつき、心の中でつぶやいた。
(人間って、面白い生き物だよね。スマホから目を離せばここにキツネがいるって気づくのに)
そう思いながら、コンちゃんも負けじとスマホを取り出した。
コンちゃんはキツネの肉球で器用に画面をスクロール。そして表示されたのは「お手軽変身アプリ」の文字。さて、今日はどんな人間に化けようかな?
会社に到着したコンちゃんは、受付で普段よりも偉そうに歩いた。なにせ今日は、社長に化けているのだ。
「おはようございます、社長!」
元気な声で挨拶する社員たち。コンちゃんは威厳のある声で返す。
「うむ、よく来たな。今日もしっぽを振って頑張るのだぞ」
社員たちは首をかしげた。「しっぽ」って何だろう?でも、気にしている暇はない。みんな忙しそうに仕事を始める。
コンちゃんは社長室に入り、高級そうな椅子にどっかりと腰を下ろした。机の上には山積みの書類。人間の仕事って大変そうだな、とコンちゃんは思う。
そこへノックの音。コンコン……コンコン……。秘書が入ってきた。
「社長、本日の予定をお知らせします」
コンちゃんは、できるだけ人間らしく振る舞おうと必死だ。
「ほう、なんだ?」
「はい。午前中は役員会議、午後からは新商品のプレゼンテーションです」
コンちゃんは焦った。
役員会議?プレゼン?なんだそれは……。
どうしよう。でも、ここで引くわけにはいかない。
「よし、分かった。ところで君、耳が丸すぎやしないかい?」
秘書は驚いて自分の耳に触れた。
「え?耳が丸いのは当たり前では?」
コンちゃんは慌てて言った。
「いや、冗談だよ。君の耳は完璧さ。キツネ耳じゃないからね」
秘書は困惑した表情を浮かべながら部屋を出て行った。
(ふぅ、危なかった。人間の耳って丸いんだった。覚えておかないと)
コンちゃんは、スマホを取り出し、こっそりと「役員会議の進め方」を検索し始めた。
会議室に入ったコンちゃん。役員たちが一斉に立ち上がって挨拶する。
「おはようございます、社長!」
コンちゃんは咳払いをして、できるだけ堂々とした態度で言った。
「えー、今日の議題は……」
そう言いかけて、コンちゃんは自分の影に目をやった。よく見たら影にしっぽがついているではないか!
やはり基本無料の変身アプリは質が悪い。たぬきが作ったのかもしれない。
コンちゃんは慌てて姿勢を正す。
「今日の議題は、新しい穴掘り……じゃなかった、新しいマーケット戦略についてだ」
役員たちは首をかしげながらも、熱心にメモを取り始めた。
「我が社は、もっと獲物……じゃなかった、顧客を獲得せねばならん!」
コンちゃんの情熱的な演説に、役員たちは次第に引き込まれていく。
「そうだ!我々は夜も寝ずに働くべきだ!」
ある役員が熱く叫んだ。
「いや、それは駄目だ」
コンちゃんは即座に否定した。
「夜は……眠る時間だ。キツネと違って人間は夜眠るものだろう?」
役員たちは困惑しつつも、頷いた。
会議が終わり、コンちゃんはホッと一息ついた。が、安心したのも束の間。次は新商品のプレゼンだ。
プレゼンルームに入ると、大勢の社員が待っていた。スクリーンには「革新的な鶏肉……ではなく、革新的な商品企画」の文字。
コンちゃんは喉を鳴らして話し始めた。
「諸君、我が社の次なる一手は……」
そう言いかけたその時、突然停電が起きた。真っ暗闇の中、コンちゃんの目だけが妙に光っている。
「あれ?社長の目、光ってません?」
誰かが叫んだ。コンちゃんは焦った。
「いや、それは……」
言い訳を考えあぐねているうちに、別の社員が叫んだ。
「すごい! 最先端の生体技術を自ら実験されているんですね!」
コンちゃんは一瞬戸惑ったが、すぐさま状況を利用することにした。
「ああ、その通りだ!我が社の次なる革新は、人体発光技術だ!」
突如、会議室が歓声に包まれた。電気が復旧する中、社員たちは興奮気味にコンちゃんを取り囲んだ。
「社長!それって、夜間作業の効率を上げられますよね?」
「街灯いらずの省エネ社会の実現ですか?」
「これで終電逃しても真っ暗な道を歩く心配がなくなりますね!」
質問が飛び交う中、コンちゃんは冷や汗をかきながらも、堂々と答え始めた。
「そうだ!我が社は、人類をキツネ……じゃなかった、光る人類にするのだ!」
すると、後ろの方から声が上がった。
「でも社長、その技術って倫理的に問題ありませんか?なんていうか、その、自然じゃないというか……不自然というか」
会場が静まり返る。コンちゃんは一瞬たじろいだが、すぐに立ち直った。
「なに、倫理だと?我々は自然の摂理に従っているだけだ。ホタルを見よ!キノコを見よ!彼らだって光っているじゃないか!」
「確かに……」
と社員たちはうなずき始めた。
コンちゃんは勢いに乗って続けた。
「我々の祖先だって、夜は焚き火を囲んでキツネと一緒に暮らしていたんだ。あれも一種の発光じゃないか。我々は単に、その火を体内に取り込むだけさ!」
会場は再び熱狂の渦に包まれた。
「さすが社長!」
「これぞイノベーションですね!」
「早速、実験に志願します!」
興奮冷めやらぬ中、一人の社員が手を挙げた。
「社長、その技術のデモンストレーションをもう一度見せていただけませんか?」
コンちゃんは固まった。さっきは停電の暗闇のおかげで目が光って見えただけなのに……。
「あー、それが……バッテリーの充電が……」
その時、突然会議室のドアが開いた。なんと、本物の社長が帰ってきたのだ。
「やあ、みんな。海外出張から戻ってきたよ。……ん?私のそっくりさんがいるじゃないか」
場内が凍りつく。
コンちゃんは観念した。
「そんなぁ……もう少しだったのに……」
そう言いながら、コンちゃんはゆっくりとキツネの姿に戻り始めた。社員たちは呆気にとられて見ている。
社員の一人が驚きながら言った。
「これは……もしかして新しいホログラム技術のデモかな?」
コンちゃんは、それに便乗することにした。
「そ、そうです!これが我が社の新技術、『キツネ化ホログラム』です!」
社員たちは再び歓声を上げ始めた。
「さすが我が社!」
「これで、街中で可愛いキツネに会えるかもしれません!」
「動物園革命ですね!」
本物の社長は、状況が飲み込めないまま、ぼそっとつぶやいた。
「君たち、本物のキツネを目の前にしてそんな反応するのか……」
しかし誰も社長の言葉に耳を傾ける者はいなかった。みんな、コンちゃんを囲んで「キツネ化」を体験しようと殺到していたのだ。
その日以来、コンちゃんは「非常勤技術顧問」として会社に迎え入れられた。彼の仕事は、社員たちに「キツネの知恵」を授けること。
そして会社の新しいキャッチフレーズが決まった。
『人間?キツネ?どっちでもいい。大切なのは、キツネのような狡猾さと知恵だ!』
コンちゃんは、毎日の出勤途中に空を見上げてはため息をつく。
(こんなはずじゃなかったんだけどな……でも、まあいいか。鶏肉食べ放題だしね)
完