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第2話



 夜依町から車で30分弱。



 山越えのトンネルを抜けた先は、まさに別世界である。



 町名にもなっている日ノ本百名川に選ばれた『湯乃川ゆのかわ』の左右には、古き良き木造の旅館が建ち並んでいる。



 江戸時代の宿場町から近代文明を経て、日ノ本有数の泉質を誇る温泉郷へ。



 川に渡された木橋から老舗旅館を眺め、ふと想像してしまう。



 文明開化の風が吹く当時ならば、開け放たれた格子窓から頭を掻きむしった文豪が「アアアアアア、だめ! 何かが足りない! それは何だァァ!」と、書き損じた原稿をポイッと投げ捨て、洋墨インクが滲む名作一歩手前の原稿用紙が川を下っていくのを眺められたかもしれない。



 ノスタルジックな幻想風景にリゾート要素を完璧に融合させた大成功例といえる湯乃川町は、今夜も美しくライトアップされた名川から清らかなせせらぎが聞こえてくる。



 チカチカとした球切れの街灯が散見する夜依町とは、雲泥の差である。



 しかし、マヤが運転する車が向かうのは、川沿いを道なりに進んで温泉街を抜け、山を少し登った先にある人気の撮影ポイント。



 そこからならば、湯乃川上流から垂直に落下する|直曝(ちょくばく)の滝と、それを見上げることができる滝つぼ近くの吊り橋を、ワンフレームにおさめることができる。



 大人気の撮影スポットには展望スペースが設けられ、日中は駐車場もほぼ満車だが、夜ともなると駐車場はガラガラで、マヤは山側に一番近い場所で車を停めた。



「行くわよ」



 懐中電灯を手にして車を降りる。一見すると周囲には、月明かりに照らされた山々しか見えず、こんなところに築数百年越えの建物があるのかと思われるかもしれないのが──あるのだ。



 妖、霊魂、憑き物が、大いに好むだろう物件が。



 助手席から降りたアスラも、空気を吸い込むなり「いるな」と感じ取った。



「こっちよ」



 舗装されたアスファルトを、マヤが懐中電灯で照らす。



 直曝の滝つぼを見るために、吊り橋まで下っていける散策路を案内する看板がすぐに見つかり、そこから斜面に沿って、階段状の散策路が整備されている。



 景色の見えない夜。こんなところを訪れるのは、運転免許取り立ての若者か、人知れず取引したい者たち。或いは大黒天の打出の小槌を探しにきた鬼と人くらいである。



 何かあったら怖いので、アスラを先頭にして散策路を下るマヤは、滝の音が聞こえはじめたところで、「このあたりだと思うんだけど」懐中電灯を照らして探しはじめる。



 右に左に。ライトが照らす先に見つけたのは、《立入禁止》の朽ちた看板だった。



「あった、あった」



 目印の看板を見つけ、ここからは散策路を外れて山道を下ることになる。もちろん、アスラが先頭だ。



 ここまでくると霊感の強いアスラには分かるようで、「あっちだな」と道なき道を、確信を持ってすすみはじめた。



 道なき道といっても、周囲は散策路のために定期的な伐採がされていて、傾斜もそこまできつくないので、歩くのには支障がない。



 そうしてマヤの照らす懐中電灯の先に小さく見え隠れしているのは、仲間内で有名な心霊スポット【武者塚むしゃづか】だった。



 塚といっても盛土ではないのだが、ここにはかつて秘湯があり、そこに怪我を癒しにくる湯治目的の落人おちうどたちがいた。その多くが野盗になり果てた落ち武者たちで、寝床がわりにしていたのが、秘湯を見下ろす場所にひっそりと建っていた打ち捨てられた古宿だった。



 数百年前の一夜。



 落ち武者狩りの奇襲を受けた落人たちは、全員ここで首を落とされたという。頭部と切り離された胴体から流れる血は山の斜面を下り、乳白色の秘湯を真っ赤に染めて、血の湯と化した。



 落人たちの首は見せしめにと、古宿の階段下にズラリと並べられ、胴体は血の湯に投げ込まれたと伝えられている。



「──っていうような逸話があってね。いつしか白骨化した髑髏どくろが転がって、雨ざらしの古宿も朽ちて半壊。そこに苔や蔦が自生して崩れかけた古寺を覆って同化しちゃって数百年あまり。いつしか塚のように見えることから地元では【武者塚むしゃづか】って呼ばれるようになったわけ」



「首塚ってことか」



 散策路を外れ、山道を歩きつづけて10分ほど。



 アスラがピタリと歩みを止めた。【落ち武者塚】はもう近い。



「胴体が打ち捨てられた血の湯とやらはどこだ?」



 懐中電灯で斜め下を照らし、「あそこ」とマヤが指を差した方向には石碑がある。



「わたしが小さい頃だったから、15年以上前だと思うけど、滝までの新しい散策路の整備計画があって、周辺を調査しにきた町役場の職員が枯れた野湯から大量の人骨を見つけて大騒ぎになったことがあるの。それで慰霊碑が建てられて供養されたあと、散策路は今のルートに変更されて、ここは立入禁止になったんだけど……」



 騒動になったせいで、心霊スポットとしてすっかり有名になってしまった。そのため、夏になると学生たちが肝試しにとやってきて騒ぐので、一時は騒音問題になっていたのだが、今夜はひっそりと静まり返っている。ここからだと滝の音も聞こえない。



 慰霊碑を見て、少し離れた場所にある【落ち武者塚】を見据えたアスラは、左の掌を上向きにして、いつものように法剣を出現させた。



 いつもとちがうのは、マヤの左手首に梵字が連なる加護の紋様を鬼術で刻んだあと、その上から「絶対に解くなよ」と、いつもアスラが持ち歩いている霊具、漆黒の呪数珠じゅじゅずを巻き付けられたことだ。



 現場近くに到着してからというもの。いつもより極端に口数が少ないアスラに、マヤまで緊張してきた。



「えーと、けっこうヤバそうな感じ?」



 しばし間を取ったアスラが、眉を顰めた。



「ヤバイ——なんてもんじゃねえな」






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