その後、押さえつけられたような圧が薄れていき、自由が効くようになった。頭も正常に働き始める。
「…………は!」
リラは我に返った。
これは夢だったのだと自分に言い聞かせる。一連の出来事を思い出すと羞恥心が湧き上がって来る。しかし、彼に掴まれたままの手首がこれは現実だと知らせている。
「わ、わ……」
ますます顔を赤くしたリラは顔を手で覆う。恥ずかしい姿を全て見られたリラは彼に合わせる顔がなかった。
「もうやだ……。あれは何だったんですか!?」
悪びれる様子もなくノアは答える。
「餌付けだ」
顔を上げたリラは開いた口が塞がらなかった。
「……なんですって? 急に嫌いになりました」
何食わぬ顔をしている彼の胸をリラは力一杯叩いた。リラの力ぐらいでは痛くも痒くもないのだろう、彼は楽しげに笑っている。
「ふっ。嫌われてしまったか」
目尻がくしゃりとした純粋で無邪気な笑顔だった。楽しげな眺めていると、怒りが収まってしまいそうになる。
ご機嫌な彼は物珍しそうにリラの髪を触り始めた。リラは言った言葉とは裏腹に、大人しく彼にされるがままにされていた。さらりと髪の間を長い指が滑っていくと、不意に頭皮が軽く引っ張られた。指が絡んだ髪に引っかかったらしい。西の森に行った後から、長らく髪の手入れに時間が取れていなかった。銀色の髪から指を抜き、彼は少し悲しげに言う。
「……髪が幾分か傷んでしまったな。櫛はどこだ?」
リラはドレッサーの方を指差す。
「そこです」
彼はすくりとソファーから立ち上がりドレッサーの前に向かう。
「開けていいか?」
「どうぞ。二段目に入っているはずです」
言われた引き出しから櫛とヘアオイルの瓶を取って、彼はリラの隣に戻ってきた。
「髪を梳かそう。背を向けてくれ」
「向かい合ったままでは、だめですか?」
「……好きにすれば良いが」
髪にスッと手を伸ばすと、彼は細く柔らかい銀色の髪を念入りに梳かしていく。
「痛くはないか?」
「自分で梳かす時の方が痛いです」
「聞き捨てならないな。もっと丁寧に扱え。折角こんなに美しい髪だというのに」
さり気無く発された、美しい髪という言葉が頭の中をぐるぐるとしていた。次第に心臓が焦燥を打ちはじめる。
ノアは真剣な眼差しで髪の絡まりを一つ一つ優しく解いている。複雑に絡まった髪も彼の手に掛かればすぐに解かれていく。それが終わると、瓶を手に取り手の平の上にヘアオイルを垂らす。体温で少しオイルを温め、手を擦り合わせる。
手慣れた様子で、腰まで届く長い銀髪の内側にオイルを塗り付けていく。切りたての花のような、青く瑞々しい香りに包まれる。毎日使っているこのオイルは、こんなにも匂やかなものだっただろうか。
リラの中でふと、一つの疑惑が湧き上がる。
「……随分慣れていらっしゃるのですね? どうして?」
言葉の調子からリラの不満を察した彼は、髪にオイルを塗っていた手を止めた。
「ああ……」
ノアは言葉を濁した。痛い所をつかれたようで、彼はリラから視線を外す。
「……何も答えて下さらないのですね」
「………………」
「嫌です。触らないで」
不貞腐れたリラはそっぽを向いた。
リラの髪から手を離した彼は深く溜息をついた。太腿の上で手を組み、彼はポツリと呟く。
「今からする話は聞き流してくれれば良い。……私は容姿に対する劣等意識が酷い」
「…………え?」
聞き間違いかと、リラは彼の方を振り返る。聞き流すことなど到底出来そうになかった。
彼は右手で自分の髪を触りながら言う。長い前髪が彼の顔の一部を覆っており表情を伺うことは叶わないが、横顔に見える、高い鼻筋や顎のラインだけでも彼の顔貌の美しさを十分に物語っている。
「幼い頃から容姿というものに只ならぬ執着がある。色々と事情があり、そうならざるを得なかった。特に、自分のこの醜い顔が嫌いだ。顔が見られたものではないのに、今以上に醜い箇所が増えればと考えるだけでも恐ろしい。だから、人の目につく所はとりわけ気に掛けている。
爪が汚いことも服装が清潔感に欠けることも、髪が痛むことも許せない。子供の頃から今に至るまで、爪は伸びるたびに形を整え直した。身に付ける物には気を使った。髪の手入れには毎日時間を費やした」
リラは彼の髪を見た。サラサラとした黒い髪には枝毛の一つも無かった。癖がなく色艶が良い髪は光を眩いばかりに照り返す。美しい髪は彼の努力の賜物なのだろう。
「私自身がこんなだから、どうしても人の容姿に目がいってしまう。他人の容姿にまで口を出すのは禁忌だと分かっていたつもりだったのに。貴女に不快な思いをさせる真似をしてしまったのは、私の配慮が足らなかったせいだ」
言葉を切り、彼はリラの方を振り向いた。彼は苦い物を飲んだ後のような顔をしていた。
「すまなかった。もうしないと約束しよう」
ノアに真剣に謝罪をされたリラは目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「何故謝る? 貴女に非は無い」
「いいえ。私の勝手な勘違いのせいで、貴方にお辛いお話をさせてしまいました」
彼は不思議そうにリラを見た。
「勘違い?」
「ええと……。怒らないで聞いて下さいますか」
「勿論」
「………………がして」
小さな声で早口に言ったリラは頬を染める。彼は申し訳なさそうに言う。
「上手く聞き取れなかった。申し訳ないのだが、もう一度言ってくれないか」
リラは着ている服を握りしめた。二度も言う事になるとは思わなかった。もうどうにでもなってしまえと一思いに言い切る。
「他の女性の影が見えた気がして」
急に沈黙が訪れる。
その間、リラは何を言われるだろうかとドキドキしていた。身構えていたリラの想像とは反対に、彼は朗らかに笑い始める。
「少しも間違ってはいないな。容姿への執着ならどんな女性にも劣らない自信がある」
「ち……、違います! そういう意味では……」
「違うのか?」
彼の無垢な瞳はリラが考えているような事は微塵も考えていなさそうである。リラは自分が恥ずかしくなる。
「…………私はてっきり、過去にお付き合いされていた方でもおられたのかと思って」
「……なるほど。妬いてくれたのか」
純粋な気持ちで発せられた言葉は時としてどんな言葉よりも心に刺さるものである。
「違いますから!」
赤面したリラは彼の体を小突いた。彼は少年のように笑っていた。
「触れても許してくれるか?」
リラは頷く。一頻り笑った後、彼は絡め取るようにリラを抱き寄せた。落ち着いた声で淡々と話し始める。
「私の事をよく思わない人は非常に多い。巷での私の評判は酷いものだ。貴女も一度はどこかで耳にした事があるだろう。だから私は人と関わることが好きでは無いし、まして、人に触れることなど到底許されたものではなかった。
ずっと他人ひとの目に怯えて生きてきた。他人というものが怖い。人と関わる事を自ら避けるようになっていった」
彼は髪を掻き分けるようにリラの後頭部に手を回す。
「──そんな私が自ら知りたいと、触れたいと、狂おしいほどに思った人は貴女が初めてだった」
リラは彼の首筋に頬を寄せた。泣きたくなるような温もりがリラの鼓動を速くした。
彼が過去にどんな辛い経験をしてきているのかリラには分からない。しかし、微かに震えている彼の指先から伝わる哀しさがこれ以上踏み込むことをリラに止まらせた。
リラは彼の首筋に頬を付けたまま言う。
「私の髪のお手入れの続き、お願いしても良いですか」
「良いのか? 任せてくれ」
再びリラの髪を丁寧に梳かし始めた彼は思い出したように言う。
「魔獣討伐がひと段落したから、少し長い休暇を貰っていてな。療養がてら何処かへ外出をしようか」
「ほんとですか! 行きたいです」
「行き先の希望は?」
「うーん……。ノア様のおすすめの場所で」
ノアは小さく喉を鳴らした。
「悩ましいな。近いうちに行き先を決めて伝えよう」