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episode.37 甘い背徳

 リラはふかふかの柔らかいベッドの上で目を覚ます。

「んん……」

 程よい温もりがあるベッドは起床するのが惜しいという気持ちにさせる。幸せな余韻に浸りながら、のろのろとリラは体を起こす。

「あ! お目覚めですか、リラ様」

 元気な声がぼんやりとしていたリラの意識を覚醒させる。見知ったメイドであるメアリと目が合い、リラは温かな喜びを覚えた。

「ここにお戻りになってから丸二日ずっと眠っておられていたので、心配していたんですよ」

「そんなに長い間……」

 ひんやりとした水が入った桶を受け取り、ぴちゃぴちゃと寝惚けた顔を洗った。


 メアリが淹れてくれたハーブティーを飲んでいると、もう一人別のメイドが部屋に入ってきた。手に持っている銀のトレイの上には、白い湯気が立ち昇ったスープと焼きたての丸いパンが二つ乗っている。

「軽いお食事をお持ちしました」

「ありがとうございます!」


 パンを手でちぎり、ポタージュスープに浸しながら食べた。温かいスープはじんわりと体に染み渡っていく。生き返る心地がした。

「美味しい……」

 リラが出された食事を全て食べ終えると、メイド達は皿を下げ、部屋から退出した。リラは部屋の窓に近寄り、陽の光を浴びながら大きく伸びをした。寝過ぎていたせいか、体がまだ少し重いが、体調は随分回復しているように思う。



 扉が軽やかに二度ノックされる。リラは近くに掛けてあった羽織に袖を通しながら、どうぞ、と声を返した。扉がゆるりと開かれる。扉口に立っていた人物にリラは驚きを隠せない。


「……ノア様?」

「少し話がしたいのだが、身体の具合はどうだ? 体調が優れないようだったら、後日にしよう」


 どうやら今日は仕事が休みらしい彼は平日よりも飾り気が少ない服装をしていた。しかし服装に乱れは見えず、几帳面さが伺える。彼は常に肌の露出を最小限に抑えた着こなしをしているのだが、首が詰まった服が好みなのだろうか。

「いえ。大分調子は良くなりましたので、今日で大丈夫ですよ」

 リラは顔を綻ばせ、彼を部屋に招き入れた。

「立ち話もなんですし、どうぞ座って下さい」

 リラは部屋にあるソファーを勧めた。

「ああ。ありがとう」



 彼は勧められたソファーに座る。メイドがお茶の準備を終えて出ていくと、彼は徐に口を開いた。

「ついタイミングを逃して伝えそびれていたのだが、貴女が目を覚ましたら伝えておくようにと言われていた事がある。今日はそれを伝えにきた」

「何でしょうか?」

「『その星からは決して逃れられぬ』とオルクレイル公爵閣下から仰せつかった」

「……なんだろう。予言みたいですね?」

「じきに意味が分かるだろうと仰っていたが、私にもよく分からない」

 ノアは複雑な表情で首を傾げていた。陶器のシュガーポットの蓋を取りながらリラは言う。

「もう一度お会いすることはできませんか? 命を助けて頂いたお礼だけでも言いたいのですが」

「そうだな……。私もあのお方に話がある。都合をつけて頂けるよう、お願いしてみよう」

「本当ですか! ありがとうございます」


 話しながら紅茶に一つ、白い角砂糖を落とす。スプーンでくるくると砂糖を溶かしていると、ふと視線を感じたリラは目線を上げる。リラの顔をじっと眺めているノアは、まるで物珍しいものでも観察しているみたいだ。

「……? 顔になにか付いていますか?」

 さっき食べたパンのくずでも付いていただろうかと心配になり、リラは顔をペタペタと手で触ってみた。幸いなことに、特に異常はなさそうだ。

「そうではない。すまない、不躾な視線を向けたな」

 視線を逸らした彼はティーカップを優雅に傾け、口を潤した。

「一つ、どうしても聞きたいことがある」

 リラも温かい紅茶を一口飲む。すっきりとした甘さのある液体が喉を通っていく。口の中に広がった、華やかで深みがある茶葉の香りが鼻を抜けていった。

「何でもどうぞ?」


 ノアは神妙な顔で尋ねるのだった。


「どうしてあの時、自ら命を顧みずに私のことを助けてくれた?」


 ティーカップをソーサーの上に置いたリラはキョトンとした顔で答える。

「貴方に生きていて欲しいと思ったからです。自分でもよく分かっていないので、はっきりとした理由をお返しする事は出来ないのですけれど」

 彼は手に持ったままのティーカップに目を落とし、考え込んでいる時のような遠い目をする。

「……そうか。私が此処を訪れた目的の一つは、貴女に謝罪をするためでもある。私の迂闊な行動のせいで、多大な迷惑を掛けた事を謝りたい」

 深く頭を下げたノアに、リラはわたわたと慌てふためく。

「頭を上げて下さい。迷惑だなんてとんでもない。私が望んでしたことです。それに、私はこの通り、もう前と同じように元気ですからお気になさらず」

 彼は頭を上げると、リラの顔を見ながら緩々と首を横に振った。

「いいや。体調は万全ではないだろう。顔色が些か優れない」

「そのようなことは……」


 リラの言葉を遮るように、ノアは色が無い透き通った結晶のようなものが入った小瓶を取り出す。

「念の為に用意しておいた物なのだが」

 少し体が怠いだけで、自分自身では体調に特に問題はないと思っていた。だが、リラを誘惑するようにキラキラと輝くそれを見た途端に心臓がどきりと跳ねた。これが今のリラの本当の健康状態だと知らせるように、調子が良かった体が突然重くなる。数日前と同じ吐き気に襲われる。ノアが持っている飴のような無機物が、いやに美味しそうに見える。

「……なんですか、それ」

「私の血に混じっていたのと同じものだ。体調が優れない時には口にすると良い。もし足りなくなった時には私に伝えてくれ。私に直接言いにくければ、誰か他の話しやすい者に伝えてくれても構わない」


 向かい側に座っていたノアは立ち上がり、リラの隣に腰を下ろす。軽く腕を広げ、リラを招いた。



「おいで」



 甘やかすように優しい声で呼ばれたリラは彼に身を寄せた。彼は激しく息を乱しているリラの肩をそっと抱いた。リラを自身の体に寄りかからせた彼はたわやかな手つきでリラの頭を撫でた。

「決して体に害になる物ではないから、その点は安心して欲しい。……私としては、予想が当たって欲しくはなかったのだが」

 彼は結晶の入った瓶を複雑な顔で眺めている。


「……ねえ」


 リラは上目遣いで彼を見る。上着の襟首を掴み、ぐっと自分の方へ引き寄せると、



「──焦らさないで」



 驚きで目を丸くしたノアは紫水晶の瞳でリラを見つめていた。

「……悪い」

 軽く頷いた彼は瓶から結晶を一つ取り出す。からりという軽い音とともに彼の手の平の上に透明な結晶が落ちる。リラはその様子をうっとりと眺めていた。

 ノアはしなやかな指で結晶を摘む。リラの首筋に添えられた手は冷たいのに、触れられているところが熱く感じる。彼は結晶を口元に近づける。


「ん」


 唇に硬いひんやりとした結晶が当たる。今すぐにそれが欲しいと体が疼く。しかし唇を開く直前で、リラは重大な事実に気付く。

 つい流される所だったが、このままでは、彼に食べさせてもらうことになってしまうではないか。


 気付きに動揺したリラは赤面する。食べてやるものかと唇を必死で引き結んだ。嫌だと首を横に振り、ここに乗せてくれと手の平を差し出した。


 彼はリラの首筋に触れていた手を、リラが差し出した手の上に重ね合わせる。

「どうした。食べないのか?」

「む……!」

 なんと察しが悪いのか。リラはふくれ面で彼を見る。

 彼は涼しい顔で首を傾げた。彼はいなし包むように手の平に指を絡ませていく。力を入れられている気配はないのに、手を離そうとしても全く動かせない。結果、ただ手を質に取られただけになってしまった。

 こっちだと教えるように、彼は唇にふにりと結晶を押し当てる。目を合わせた者の意識を奪う、底まで澄んだバイオレットの瞳でリラと見つめ合っている。



「ほら」



 朦朧とした意識の中でも頭に染み入ってくる誘いの声に、リラは首を横に振る。彼はリラの手に絡めていた指を突然離す。ぱっと手首を掴まれ、彼の方に更に引き寄せられる。



「はやく」



 至近距離で聞こえてくる脳を溶かす甘い声に理性が崩れ落ちて行く。麗しき悪魔の誘惑に負けたリラは、妙に敗北感を覚えながらほんの少し口を開いた。


 長い指が柔い唇を掠める。なんだか禁忌を犯しているような気分になる、堪らない背徳感があった。とうとう舌の上に冷えた結晶が落とされると、今か今かと待ち望んでいたその瞬間に心が震えた。


 口の中で結晶が解けていく。

 弾けるような快感が全身を駆ける。それは氷菓子よりも甘く感じた。体ごと溶かされてしまいそうなほど甘い。


「……んむっ」


 白い肌に朱が差していく。全身の細胞が歓喜していた。痺れているみたいに体が熱い。


 蕩けた目で余韻に浸っていたリラの頬が突然、横へむいっと引っ張られる。

「ひゃなひて」

 離してと言ったつもりが頬を引っ張られているせいで、きちんと言葉を発する事ができない。抗議するリラに彼は呆れたように言う。

「人目が無いところで食べると約束するなら離そう」

 無表情の彼はリラの頬を伸ばして遊んでいる。

「ひまふ」

 リラが即答すると彼は手を離す。

「よろしい」

 摘まれていた頬が、じんと痛んでいた。


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