意識は緩々と上昇していく。
目を開けると、見覚えのない天井が広がっていた。
「ああ、目が覚めたか」
すぐ側から低い艶やかな声が聞こえた。リラが一番聞きたかった声。聞き違えることなどなかった。
「…………ノア、さま?」
「おはよう」
彼は座っていた椅子から立ち上がり、ベッドの縁に浅く腰を下ろす。リラを見下ろす紫紺の瞳に向かって尋ねる。
「……朝ですか?」
リラに問われた彼は窓に目をやる。ふわふわと柔らかそうな白い雲が浮かんだ空には、太陽が空高く昇っているのだった。
「昼だな」
「ふふっ」
彼の手を借りつつ、ゆっくりと体を起こした。リラが彼の姿を最後に見た時には乱れていた髪型や服装は、綺麗に整え直されている。体を起こすやいなや、ひしと抱きしめられる。
「もう目を覚まさないんじゃないかと思った」
すぐ近くから聞こえてきた声は震えていた。普段、感情を表に出さない彼から発されたものとは思えない、弱々しい声である。辛さを押し込めているようで、聞いているリラの方まで胸が苦しくなる。
後頭部に回された手の大きさを感じながら、ぼんやりとした頭でリラは問う。
「……夢ですか? 私は……生きているのでしょうか?」
「夢ではない。生きている。もうどこも痛まないか?」
「はい」
「良かった……」
押し潰されてしまいそうなほどに、彼はリラの体を強く掻き抱いた。
リラは自分の手をそっと彼の背に回す。指に触れる広い背が、細い体を抱く逞しい腕が、彼の規則正しい心臓の音が、リラが生きていることを実感させる。
「ご無事ですか?」
「ああ、貴女のおかげで何ともない。私の事などより自分の心配をしろ」
彼は愛おしむようにリラの髪を指で透いた。一旦体を離した彼は優しくリラの手を包み込む。短めに切り揃えられている爪が美しい指先から伝わる低い体温は、いつか初めてその手に触れた日を思い出させた。
彼の顔は普段よりも心なしかやつれていた。苦痛の残滓を張り付けたような顔をしている彼の頬に手を添える。
「ふふ。ひどいお顔」
「うるさい」
リラの言葉で不貞腐れた彼はぷいと横を向いた。仕草からは幼さを感じさせるが、目を離すことができなくなるほど端正な横顔は大人っぽく、美しかった。
やがて、こちらを向き直した彼の紫の瞳は潤んでいた。
「本当に、ありがとう」
濡れた瞳がキラキラと光を細かく反射する。今にも零れ落ちそうなほど、目には大粒の涙が溜まっていた。出会ってすぐの頃は無表情で冷徹であった彼が、このような表情を自分に向けてくれたことがリラは不覚にも嬉しかった。
「どういたしまして」
リラは意識を失う直前のことを思い出す。
痛かった。苦しかった。怖かった。
燃えているみたいに体が熱くて。段々自分が分からなくなっていって。
──でも、貴方を失う事の方がもっと、ずっと、怖かった。
朧げになっていく意識の中で、リラを引き留めるように強く抱きしめていた腕の力だけははっきりと覚えている。
「もう少しだけ、抱き締めていてもらえませんか」
リラを優しく腕の中に閉じ込めた彼の、太い首筋に顔を埋めた。さらりとした肌に触れていると、じんわりと温かいのが分かる。芯から冷え切り、氷のように冷たかった体は元の体温を取り戻していた。
香水は付けていないのに、彼からは朧げに柔らかな香りがする。心が落ち着く香りで胸を満たしていると、気が抜けてしまったのか、次第に目に涙が溢れ始める。首筋に顔を埋めたまま、なかなか離れようとしないリラに痺れを切らしたのか、彼は少し頭を動かした。
「……そろそろいいか。擽ったい」
「だめです」
「………………」
訴えも空しく、彼はリラの体を引き離した。そしてリラの涙に濡れた顔を見た彼は焦りを浮かべる。
「……見ないで」
何も言わずに目を逸らした彼は、鼻を啜るリラの頭に手を添え、自分の胸に顔を埋めさせた。パリッとした張りがある彼のシャツをぎゅっと掴む。きっと皺になってしまうだろうななどと考えながら、リラは自身の感情を紛らわせた。彼は幼子をあやすように啜り泣くリラの頭を撫でていた。
「明日には此処を出て、屋敷に戻ろうか」
「戻ります」
「今日は一日体を休めておけ。道のりが長い」
「はい」
彼は触れるか触れないかくらいの強さで、長い間リラの背を優しく叩いていた。