彼女は既に虫の息であった。
体に触れても、何度名前を呼んでも、彼女からはもう反応が返ってこなかった。身体から少しずつこぼれ落ちていく魂をどうにか繋ぎ止めたくて、ノアは必死にリラの体を抱いた。
彼女は何故このような悲しい選択をしたのか。私などのために、何故──
初めて心から愛おしいと思った女性を、私の目の前で今にも息絶えそうな彼女を、私はどうしてやることもできない。
私は大切な人を救うことすらできない。
エメラルドのように美しい翠の瞳を向けてくれ。
唄うように軽やかな透き通った声を聞かせてくれ。
花のように愛らしい表情で微笑んでくれ。
体の内側で火でも燃やしているかのように熱い彼女の身体に腕を回し、ノアは声にならない絶叫をあげた。
──私のせいで、また命が失われていく。私のせいだ。何もかも全て。
絶望に打ちひしがれ、項垂れていた時だった。突然、腕の中から彼女の体を引き離されたのは。
「──大義である、娘。悪くない茶番だった」
ノアが顔を上げると、そこには一人の白い男がリラを抱き上げて立っていた。
ひときわ光彩を放つ圧倒的な存在感。
いかなる場所でも見映えがする端麗な容姿。
誰もを傅ける重厚な圧。
見間違うはずもなかった。
「…………ライアン・オルクレイル公爵閣下」
最年少ながらに大魔法師の地位を授かった、稀代の天才。彼の手で治せぬ病などないと、帝国のだれもが讃える随一の治癒術師。
思いがけない人物の登場に、ノアは崇敬の眼差しを向ける。彼はベッドに座り込んでいるノアを上から見下ろしながら、吐き捨てる。
「気安く私の名を呼ぶでないわ。凡俗」
そして、帝国の白き悪魔は豪胆不敵な笑みを浮かべた。
「我が一族の名をかけて、娘の命は助けてやる。光栄に思え」
今のノアには、彼のその言葉が何よりも心強かった。
「だが、まずは腑抜け面の貴様からよ」
ライアンは片手でリラの体を抱いたまま、ノアの体に触れる。
「『回復』」
ライアンが触れている所から蒼い光が溢れる。彼の手から伝わる波動が全身に流れていくと、一気に全身に活力が溢れてくる。今までに味わったことがない感覚だった。体から気怠さや痛みが取り払われていく。
動揺していたノアが少し落ち着き始めたことを察したかのように、彼はノアに話しかける。
「か弱い女ごときに胸を貫かれた気持ちはどうだ? 騎士様よ」
「……返す言葉もありません」
「ふん。あれが真の刃物ならば貴様は今頃亡き者よ。幸運な奴め」
ライアンは鼻を鳴らす。
「ときに貴様。いつまで病人を気取っておる。腕なぞとっくに治っておるわ」
ノアは恐る恐る右手を握ってみる。ぴくりともしなかった指は思い通りに動き、細やかな動きも出来る。もう動かないはずだった手が、彼に少し触れられただけで元通りに動くようになっていた。続けて背中にも触れてみる。皮膚が引っぱられるような痛みは無くなり、大きな火傷痕まで綺麗に消えていた。体全体が元々よりも軽やかに動くようになっている。
「……すごい。切れた神経まで治せるのですか?」
「分かりきったことを聞くでないわ。私を誰と心得る」
虫を払うようにライアンは手を振る。彼が言いたいことを察したノアはベッドから降りる。ライアンが指を一つ鳴らすと、一瞬にして寝台が美しく整え直される。そして皺一つない寝台の上にリラをそっと寝かせた。
ライアンは寝台のそばに置いてあったグラスを手に取る。瞬く間にその中は水で満たされた。
次に彼はリラの右手に触れた。手の平を表に返し、親指の付け根辺りに指を軽く滑らせる。ライアンが指でなぞったところに一本の黒い線が現れた。
「この娘をしてこれか。全く厄介なものよな」
グラスの上にリラの手を持ってくると、彼女の手を強く握る。漆黒の雫がぽとぽととグラスの中に落ちていく。ドロドロとした粘着質な黒い雫はグラスの底に溜まっていく。
ライアンはグラスの上に手を翳し、
「『浄化』」
白い光と共にグラスの中の黒い雫が消え、初めと同じ透明で清らかな水に戻る。
ライアンはリラの不安定な首を支え、いささか体を起こさせた。顎に手を当てて柔い唇を少し開かせる。その隙間から僅かにグラスの水を流し込んだ。リラの口元を手で押さえ、上を向かせる。彼女の喉元が小さく動いた。
彼女はゆっくりと重い瞼を上げる。焦点が合っていない目をして、か細い声で呻いた。
「……う、ん……」
いつ事切れてもおかしくない状態だった彼女は、不思議な原理で作り出された水をたった一口を飲んだだけで、劇的な回復をみせる。苦しそうに彼女は小さく身悶えをした。
力が抜けた首を起こさせ、リラの唇にグラスを付ける。
「娘、飲み干せ」
彼女は唇を引き結ぶと、グラスから顔を逸らした。
「私の命令が聞けぬとな。いちいち手を焼かせよるわ。まあ良い。元より期待はしておらなんだ。おい、そこな凡俗」
「……お呼びでしょうか」
「自分が凡俗だという自覚があるのは褒めてやる。こっちに来て手伝え。娘を押さえておけ。良いか。決して離してやるなよ」
思いがけず真剣な顔で言った彼に、ノアは只ならぬ気配を察する。
「承知致しました」
ノアは彼と場所を変わる。ノアは寝台に腰を下ろすと、リラの細い体をしっかりと抱き締めた。
ライアンはリラの肩に手を置くと、目を閉じた。肩に置かれた手からノアの時とは比べ物にならないほど眩い、蒼い光が溢れ出す。彼女は目を潤ませながら、抗うように必死で身を捩る。
「やめて……! は、なして!」
ノアは隣に立っているライアンを見上げた。彼女がどれだけ訴えかけても、彼がその光を緩めてやることは無かった。
「公爵様……!」
目を瞑ったまま、彼は応じる。彼の手から溢れる光の量がさらに増していく。
「今話しかけるな、阿保」
途端に黒い靄がはっきりと見えるようになり、彼女の体の中央に集められていく。ますます激しく悶えながら泣き叫ぶ彼女の体を離さないようにノアは腕に力を込めた。中央に集められた禍々しい靄が、輝かしい青白い光に相殺されていく。
「『回帰』」
靄が霧散する。同時に彼女の身体からゆっくりと力が抜けていく。
ようやく瞼を上げたライアンは、リラの肩に置いていた手を退けた。
「よく耐えた、娘」
彼は人差し指でリラの頬に落ちていた涙を拭い取る。
「……彼女は助かったのですか?」
「じきに目を覚ますだろうよ」
ノアの腕の中でリラは穏やかに目を閉じていた。
「そうですか……。良かった。礼を申し上げます」
ノアはリラを寝台に寝かしながら、
「お聞きしたいことがあるのですが」
ライアンは寝台のそばにあった机に腰を下ろし、脚を組んだ。
「はっ。貴様から私に口を利くとは珍しいこともあるものよ。もしつまらぬ事は聞こうものなら、二度と口が利けぬようになると思え」
「公爵様のお力があれば、一度彼女に毒を移さずとも、私の体から直接解毒が出来たのではないのですか?」
腕を組みながらライアンは答える。
「断言してやる。この私をもってしても、それは出来ぬとな。加えて、これは他ならぬ娘自身が決断したこと。ならばそれを通してやるのが筋というものであろうよ。娘に感謝しておけ。この娘は貴様ら有象無象とは元々持っているものの格が違う。娘が娘であるから助かったのだ」
「では彼女を苦しませずに彼女の体から毒を取り除く方法なかったのですか? ……あれは……あんまりでしょう」
「俗物の分際で、この私のやり方にけちを付けるとは生意気な。娘の血に至るまで穢れが回っておったのは貴様も見ただろう。私は死にゆくだけになった娘の体を強引に現世に留めたのだ。苦しくないわけがなかろうよ」
「……方法が無かったことはよく分かりました」
彼は机から降りると、床に落ちていた真っ黒になったナイフを拾い上げた。
「これは私が預かってやる。貴様らの手に負えるものでないからな」
彼が手で触れると、禍々しい色のナイフが細かい光の粒へと変わっていく。それが何処かへ消えてゆく不思議な現象をノアは目にした。
完全に粒子と成り果てたことを見届け、ライアンはゆるりと顔を上げる。明らかに先刻までとは彼を包む雰囲気が異なっている。獲物を狩る時のように殺伐とした空気が漂っていた。
「さてと。貴様に話がある」
「私に、ですか?」
ノアは何の話かと背筋を伸ばした。ライアンは値踏みするような目をノアに向ける。全てを見透かすような薄青の目に居心地の悪さを感じた。
「単刀直入に聞く」
ライアンは広い袖口から血で汚れた薄い小さな桐箱を取り出した。
「──何故貴様がこのようなものを持っている?」