「私こそごめんなさい。急に近付かれると驚きますよね。体を起こしても良いですか?」
今度は承諾を取ってから、リラは彼の首の後ろに手を回し肩を支えた。自分の方に重い身体を引き寄せる。リラを見つめる目は虚けていた。
「……水をとってくれないか」
言われた通り、寝台の側のテーブルにあった透明のグラスに水を注いだ。彼の震えている手にグラスを握らせる。ノアはグラスをゆっくりと口に運び、一口水を飲む。乾燥で割れた唇はすっかり色を失っていた。
「ありがとう」
グラスを返そうと、彼はリラの方へ手を伸ばす。
リラがそれを受け取ろうとした時だった。
「…………あ゙……っ」
鈍い声をあげた彼の手からグラスが滑り落ちる。
ゆっくりと落ちていくのが見えたと思った次の瞬間、それは床にぶつかる。パリンという大きな音がして、水飛沫と共にガラスの破片が床に散らばった。
突然、彼は苦し気に胸元を押さえた。呼吸が酷く乱れている。
「ノア様……っ!」
リラは彼の身体を強く支え、その背中に手を添えた。彼は口元を手で押さえ、えずくように咳き込んだ。大量に赤黒い血が吐き出される。
身体は既に毒で侵されきっていた。長い指の隙間から血が滴り落ちていく。
「…………は……」
赤く染まった手の平を眺め、彼は呆れたように笑った。リラは枕元に置かれていたタオルを急いで彼に渡す。綺麗な白いタオルは彼が咳き込むたびに赤く色を変えていく。
「……みせたくなかったな。こんなところ」
彼は苦痛で歪んだ顔をリラに向けた。唇は血化粧のために紅を引いたように麗しい。蠱惑的な美貌が殊に際立っていた。息をする事すらやっとの彼は自嘲めいた息を吐いた。
リラは彼の背を摩りながら、
「どうかお気になさらず。それよりもようやく解毒の方法が見つかりました。もう大丈夫です」
「…………そう、か」
項垂れた彼の口端から一つ、二つと血滴が落ちる。白い布団の上に滲みをつくっていく。
「今すぐ解毒をしてしまいましょう」
彼の顔の輪郭を柔く繊細な指でなぞり、優しく自分の方を向かせた。常に整然としている前髪は崩れており、その隙間から深い海の底の色をした透き通った瞳が覗いている。
なんて美しいんだろうと感慨に耽りながら、リラは親指で彼の唇に付いている血を拭いとる。
「でもその前に一つ、頑張った私の我儘を叶えて下さいませんか」
ノアは確かな光を宿した瞳をリラに向ける。
「わたしで、かなえてやれることなら」
「──私の名前を。呼んでください」
ノアは柔らかく微笑み頷いた。白い唇をゆっくりと動かす。
「────リラ」
それは世界で一番甘美な毒だった。
彼から紡ぎ出された、たった二文字の旋律はリラの心を一瞬にして満たしていく。
「──ノア様」
骨張った白い頸筋に手を添え、触れる様に優しく彼の唇を奪った。
──今、この瞬間だけでいいから。私の事だけを見て。
彼の体は蝋細工のように冷たくなっていた。リラは彼の背にきつく腕を回したまま、隠し持っていた白いハンカチを握りしめる。
自分でも愚かだと思う。
リラが彼から代償にもらったのは、たった一つの言葉だけ。不釣り合いにも程がある。
理由なんて分からない。それでも強く思ってしまう。
私の命に代えてでも、貴方のことを助けたい、と。
リラの思いを察したように、ハンカチは淡い光を纏いながら瞬く間に鋭いナイフに形を変えていく。神秘的な現象だった。
触れ合っていた唇を離す。左腕は彼の背に回したまま、右手にナイフをしっかりと握りしめる。放心したままのリラを見ている彼の心臓へと、ナイフを一息に突き立てる。
いとも容易く心臓を貫かれた彼は一瞬何が起きたのか分かっていなかった。自分の胸をゆっくりと見下ろした彼は目を見開いてリラを見る。
「……っ…………ぁ……」
白く淡い光を放つそれは彼の胸に深々と刺さっていた。
リラは彼から怒りや恨みといった感情を向けられる事を覚悟していた。しかし、彼の目にはそういった感情は一切見られなかった。むしろ、悦びすらたたえているかのような表情は不気味なほどに可憐だった。
神聖な光を目掛けて、彼の身体中から一斉に禍々しい黒い靄が集まっていく。白いナイフは即時に黒く黒く染まりきる。
リラは彼の胸に突き立てたナイフを抜き取る。彼の体には傷の一つも付いていなかった。
黒い靄のようなものはナイフの柄を持つリラの右手を伝い、光のような速さで吸い込まれるように体の中に入っていく。
内臓を焼かれているかのように体の中が痛い。手脚は痺れ感覚が無くなっていく。全身が沸騰しているかのように熱い。血が逆流しているような感覚に襲われる。
「良かった……。成功して」
右手に持っていたナイフを取り落とす。力が入らなくなった身体を彼に抱き止められる。ノアは縋るようにリラの細い身体を掻き抱いた。
「答えろ。何をした……っ!」
彼はリラの頬に手を添え、自分の方に向かせる。
「どうしてこんな事……!」
朦朧とした意識の中、彼へと手を伸ばす。沈痛な面持ちの彼は細い手を強く掴んだ。リラは彼に優しく微笑みかける。
「──私の我儘を叶えてくれて、ありがとう」
リラの意識は糸が途切れたようにおちた。