リラとリオンが西の森に着いたのは、上弦の月が南西の空を昇っている頃だった。
住宅街を少し入ったところでは、負傷した騎士達の手当てが騒がしく行われている。見ている限り、そこまで重傷を負っている者はいないようだ。リラはリオンの手を借りて馬から降りる。
「……リオン様。なんだか焦げ臭くないですか?」
「同感です。私のそばから離れないでもらえますか」
リラは頷く。自分で身を守る術を持っていないリラが、ふらふらと一人で行動出来る場所ではないのは一瞬で察することができた。
リオンは辺りを警戒しながら、住宅街の奥へと足を進めていく。リラは彼の後ろを付いて行った。奥へ進めば進むほど、焦臭さは増していく。しかし、身長が高い彼のすぐ後ろを歩いているリラには前方の状況は分からなかった。
住宅街を抜けると突然リオンは足を止めた。
焼け焦げた木々の数々。灰と化した草木。
森は住宅街に近い側を起点に広範囲に渡って焼かれており、色を失っていた。後ろ側に生えている木々の鮮やかな緑と対を成している。そして、生き物だったらしきもののおどろおどろしい死骸がそこら中に散らばっている。
異臭がしている時点で想像は出来ていたが、凄惨な光景だった。
「……状況は理解しました。引き返しましょう」
「何があったのですか?」
「この異臭は森が焼けたことが原因のようです。見てもいい気がするものではないので、ご覧にならずとも宜しいかと」
リオンはリラに有無を言わせる間も与えず、軽くリラの肩に触れると、来た方向に体を返した。リラは戸惑ったが、大人しく彼に従っておくことにした。
二人は無言のまま、元いた住宅街の入り口まで戻る。
「もしかして、リオンさんですか? 会えば分かるって言われたけど、本当にそうだった」
リオンはリラを背後に庇いながら、とたとたと近付いてくる足音に警戒心を露わにする。
「どなたですか」
「あー……、急に声かけてすみません。変な者じゃないです。リオンさんを呼んでほしいと副団長から頼まれたんです」
茶色い髪の騎士は何もしない事を示すように、顔の横に両手を挙げた。
「では、私宛てに手紙を送ったのは貴方ですか? 初めて見る字だったので」
「はい。僕です。思っていたよりもずっと到着が早くてよかった。ちょっと待ってて下さいね。団長を呼んでくるので、話は団長から聞いて下さい」
騎士はすぐにルージュを呼びにいった。
暫くして騎士に連れられてきた彼を見て、リオンとリラは愕然とした。
彼の顔からは疲労が色濃く滲み出ていた。着ている白いシャツは所々赤黒く染まっており、左袖が不自然に切り裂かれていた。少女のように細い腕が露わになっている。
そのまま下に降ろされている美しいブロンドの髪には、髪留めの跡がくっきりと残っていた。その様子を見ているのが耐えきれなくなったのか、リオンは彼に駆け寄る。リラは遅れてリオンに続いた。
「ルージュ様……!」
「……僕は大丈夫。少し疲れているだけだから」
「どこか怪我を?」
血痕に触れようと手を伸ばしたリオンからルージュは素早く一歩身を引く。そして、苦々しげな顔をした。
「触らないで。毒が混ざってる。それに僕は何処も怪我していないし、体調も問題ない」
リオンと話しながら、彼はリラがいることに気付く。
「お嬢様もご一緒でしたか。見苦しい姿であることをお許し下さい」
「いいえ、構いません。そんなことよりも毒、というのは? 先に、服をお着替えになった方が宜しいかと」
ルージュは苦笑する。
「僕、体質的に毒とか効かないので大丈夫です。話すと長いので僕の話は置いておきましょう。ひとまず僕に付いてきてもらえますか? 親切な住民の方が家をお貸し下さったので詳しい話はそこで」
ルージュは一つの家の前で立ち止まると、二人に中へ入るように促す。部屋に入るなり、二人はその場に立ち尽くした。
家具が少ない殺風景な部屋に置かれた簡素な寝台。そこには苦し気な表情で目を閉じているノアの姿があった。
「……ノア?」
息を呑んだリオンは寝台へと駆け寄り、崩れるようにノアの肩を掴む。
「ノア。俺だ。目を開けてくれ」
痛ましい程に震えている声に応え、ノアはゆっくりと目を開けた。弱々しい光を宿す瞳にリオンの姿を映した彼は、
「…………りおん?」
眠たそうなふわふわした声で言い、横たえていた体を起こそうとした。彼の肩を支えるリオンを見ながら、ルージュがぽつりと言う。
「……少し二人きりにしてあげましょう」
リラはルージュと部屋を後にした。
リオンはノアをベッドの縁に座らせてやる。
「説明してくれ。何があった?」
説明するのも面倒だと言わんばかりに、ノアは無言で自身のシャツのボタンに手をかける。左手で器用にボタンを外し終えると、シャツをぱさりと肩から落とした。
均整が取れた精悍な肉体が眼前に晒される。右腕に巻かれた白い包帯にはじわりと赤い血が滲んでいた。ノアは体に巻かれた包帯を解いていく。ノアの体の周りを一周し、上半身の傷の状態を確認したリオンは絶句する。
リオンは両手でノアの右手を包み、強く握る。
指先は芯まで冷え切っており、いくら強く握ろうとも何の反応も返ってこない。上腕が切れた際に、指先に至る神経が完全に断絶してしまっていた。リオンの温かい手の上に、ノアは左手を重ねる。
「手を握るなら左にしてくれ。右はまだ痛い」
それが嘘であることが分かっているからこそ、リオンは言葉を発せなくなる。
ノアの右手は二度と使えないだろう。痛みも、温度も、何も感じられないはずだ。彼自身の満足がいく剣を振ることももう叶わないだろう。再び騎士としての完全な復帰は望めない。
新しい包帯を自分で巻き直そうと苦戦しているノアの手からリオンは包帯を奪う。包帯を巻かれながら、ノアはまるで他人事のように話し始める。
「逃げ遅れた少女を助けたのだが、私の予測が甘く、負傷した。もってあと三日らしい」
リオンは手を止め、固まる。ノアが何を言っているのか、理解が全く追いつかなかった。
「……三日? 一体何の話をしている?」
「私の体がもつのが、あと三日だ」
「嘘だ。俺は信じない」
「嘘ではない。事実だ。こんな縁起でもない嘘をついて、私になんの徳がある」
動揺するリオンを宥め、ノアは淡々と説明を続ける。
「傷口から入った魔蟲の毒が全身にまわっている。魔獣が時折、災を起こすことがある隣国ならば何か方法があるやもしれぬが、魔獣が存在したことがないこの国では魔蟲の毒に対処するのは難しいだろう。事実、症状を診た医者は皆揃って匙を投げた」
シャツを着せ直されたノアは苦笑しながら礼を言う。
「まだ助かる方法はある」
リオンはシャツのボタンを一つずつ留めながら考える。しかし、具体的な案は微塵も浮かび上がって来なかった。そうなる事を見越していたらしいノアはさぞ興味なさげに言う。
「方法など見つからないだろうよ」
「……どうして簡単に諦められる? お前は本当にそれで良いのか?」
鬼気迫る顔のリオンをぼんやりと眺めながら、ノアは仄かに唇を綻ばせて静かに頷く。ノアは血が通っていないのかと思うほどに白い顔をしていた。
「私はもう長くはない。だから、お前を此処に呼んだ」
ノアはリオンの肩に手を置き、彼の体を自分の方へと引き寄せる。ノアを取り巻く空気は冷然としており、つい先刻迄とは別物に変わっていた。リオンの耳元に顔を近づけ、鋭く目を細める。余裕を浮かべた表情のノアは、相手に自然と畏怖の念を抱かせる、凛とした声で囁く。
「我が名の下で、お前に命ず。──私との契約関係を『解除』しろ」