「…………っは……」
──夢を、見た。昔の夢を。
幾度となく見た光景。瞼の裏に焼き付いた幻想。
否。
幻想であればどれほど良かったことか。全て、私の過去。悪夢のような現実。
幾つになっても決まって幼い頃の夢を見る。
忘れる事は許さないというように、私を過去に縛り続ける。
少しの間で良いからその悪夢から逃れたいと、私は重い瞼を上げる。次第に焦点が合うようになった目が映し出した、見慣れた濃紺の天蓋に安堵する。仰向けになっていた体を横に倒し、シーツの上に付いた左手を支えにしながら凝り固まった身体を無理矢理起こした。
体に掛かっている布団すら私を縛り付けているように感じる。それを掴んで体から剥がし、雑に床に叩き落とす。
背中に嫌な汗が伝い落ちていく。真夏の熱帯夜に放り出されたようだった。長い前髪は額にべったりと張り付いている。視界を遮る前髪がいつにも増して鬱陶しい。髪を手で掻き上げる。
外はまだまだ暗い。
しかしもう一度眠りにつく気にはなれなかった。埋めようのない虚無に苛まれながら、ベッドから床へと脚を下ろす。汗でも流そうかと思い立ち上がってみたものの、誰かに大きく揺さぶられているみたいに頭痛がひどく、全身が怠い。
その脚で窓辺に向かい、カーテンを引いた。黒い空には半月が爛々と輝いている。街明かりは消え、静寂だけが漂っていた。
薄いレースカーテンの隙間から青白い月明かりが漏れ入る。お陰で室内は目が効くほどに明るく、わざわざ灯りを点す必要も無かった。幻想的で唯一無二の色をした月の光にも心は微塵も動かされない。
冷たい月明かりを背に受ける。ズキズキと痛みを訴え続ける額に手を添えながら、壁を伝う。辿々しい足取りで、導かれるように部屋の出口に向かった。
壁にかかっている全身鏡の横を通り過ぎようとした時、鏡全体を覆っていた厚手の布に手が引っ掛かった。私が付いた手の下で布は無造作な皺を形作る。従順で滑らかな布がバサリという音を立て剥がれ落ちていった。まるで氷が溶けていくかのように緩やかに床上に広がっていく。ふと横を視線を横にやると、遮る物が無くなった銀面に一人の男が映し出されていた。
──真っ直ぐに此方を見る、紫紺の瞳をした男。
鏡を直視したのはいつ振りだろう。ああ、何度見ても気味が悪い色をしている紫色の目。私の過去を悪夢にした、元凶。
いっそこれも夢であれば良かったのに。
寒気がした。強く抱いた右肩に、爪が深く深く食い込んでいく。
眼前には目を背けたくなる残酷な現実が突きつけられている。幾度となく、「もしかしたら今日は違っているかもしれない」と淡い期待を抱いて鏡に自らの姿を映した。幾度となく、その期待は裏切られてきたが。
期待するだけ無駄だということなど、初めから頭の中では分かっていた。ただ、私はどうしても現実から逃げたかった。
──現実を受け入れることが怖い。
今までに自分自身に投げかけられた言葉が、自分の身に起きた出来事が呼び起こされる。
現実を受け入れれば、それらから逃避する場所が無くなってしまう気がした。だが無情にも、私を嘲笑うように残酷な記憶たちは閃光の如く頭を駆け巡る。嘲笑は私の思考を掻き乱していく。
「………………あ゙……っ」
──認めろ。嫌だ。受け入れろ。嫌だ。認めたくない。絶対に認めてなどやるものか。
興奮が最高潮に達した時、心臓がどくどくと暴れ始める。水の中に沈められた後のように、浅い呼吸を繰り返す。縋るように憎らしい銀面の上に手をついた。爪と擦れ合った鏡面が叫び声を上げる。鼓膜に傷を残す音だった。
──この世界に生を受けたことがお前の最も重い罪なのだ。
鏡の中の男の、目も当てられない醜態と女々しさに嫌気がさした。刹那渦巻いた黒い感情が私という存在を穢していく。
──こんな世界。いっそ全部壊れて。消えてしまえばいいのに。
透き通った気高い音が穢れた思考を割る。私が付いた手を始点に鏡が放射状にひび割れていた。力を加えた訳でもないのに、突然始まった超自然的な現状。
一度始まった崩壊は止まらない。凶悪な破壊の進行を私は静かに見守ることしかできなかった。鏡は端まで余す所なくひび割れていく。
いくつもの破片が音を立てて無情に床に散る。銀片は月明かりを反射してキラキラと虹色に輝いていた。
「は…………っ」
正気を根刮ぎ抜き取られた感覚と心臓を握りつぶされるような痛みが私を襲う。冷えた床の上にふらりと膝を付いた。突然の破壊が引き起こされたのは、私の内に宿る力のせいだ。私が感情を激しく乱したせいで、内の力が暴走したのだ。
こんな醜い力、微塵も欲しくはなかった。神は何故、私にこんな力を与えたのか。
どうして現実はいつもこんなにも無慈悲なのだろう。
どうしてこんなにも私を苦しめるのだろう。
教えてくれ。
この世界はどれだけ私のことを苦しめれば気が済むのか、を。