街に出掛けた日から、特に変わったこともなく二日が過ぎた。
リラが部屋で本を読んでいると、メイドに声をかけられた。
この前ノックを忘れて部屋に入り、リオンに叱られそうになっていた彼女だ。助け舟を出してあげたおかげか、あの日からリラに懐いてくれており、専属の侍女のようになっている。いつもリラの事を気にかけ、身の回りの世話をしてくれていた。
リラと彼女は歳が近いこともあり、気を許せる存在だった。お互いに名前で呼び合っている仲である。
彼女は名をメアリといった。
歳は十五である。長女である彼女には弟が三人おり、弟達を養うために此処でメイドとして働いているそうだ。少し忙しない所があるがしっかり者の彼女は、弟達から慕われているらしい。
リラは彼女から弟達の話を聞くのが好きだった。彼女の話を聞いていると、元気いっぱいな弟達の様子がありありと浮かんできて、リラ自身も元気を貰えるからだ。彼女の家での賑やかな出来事について聞くのも日々の楽しみの一つである。
メアリは花瓶の花を鮮やかなオレンジ色のものに変えながら言う。
「リラ様、御夕食までにお召し替えをなさいませんか? 旦那様がご帰宅なさるまでに、まだ時間はたっぷりございますし。それに一度も着ておられない新しいドレスが沢山ありますし」
確かにリラはいつもワンピースや室内着用のラフなドレスばかりを好んで着ているので、正装に近い華やかなドレスに袖を通したことはまだ無かった。本来、夕食時は正装をするのが正しいのであろうが、特にきっかけも無かった為、リラはずっと着飾るということをしていなかった。
花を片付け終えたメアリは大きなクローゼットに向かい両扉を開ける。クローゼットにずらりと並ぶ煌びやかなドレスは、今か今かと出番を待ち構えているようだ。壮観で、誰もが目を奪われてしまう美しさである。
「そうね……。折角だしそうさせて貰おうかしら」
メアリは晴れやかな顔で手を打った。
「はい! 全力でお手伝い致しますね!」
一時間程経っただろうか。
ドレスを選んだ後、メイクとヘアセットが始まりドレスの着付けに至るまで、メアリを中心にメイド達がテキパキと進めていってくれた。彼女達の手際の良さのお陰で、リラが想定していた時間よりもずっと早くにドレスアップは終了した。
「完成です!」
仕上げにネックレスを付け終えリラの姿を正面から確認し終えると、メアリはリラを室内にある大きな全身鏡の前に誘導する。
鏡と向かい合ったリラは思わず感嘆の息を溢した。
「……私じゃ、ないみたい」
そこには、眩いばかりの美しさを放つ銀髪を後ろでシニヨンに纏めた美しい女性が写っていた。
ミントグリーンの淡い色合いのドレスは、シフォン生地が幾重にも重なったスカートが美しい。胸元にも白いレースが贅沢にあしらわれている。軽やかで涼しげな印象のドレスは繊細で華やかだ。腰には艶やかなサテンの生地で出来たダークブラウンのサッシュベルトが結ばれており、甘く可愛らしいドレスの色を引き締めるアクセントになっている。
一度鏡の前で回ってみると、軽いスカートがフワリと広がり、女性らしさを演出する。
優秀なメイド達の手に掛かれば、こうも見違える程に美しく変われるものなのか。
「本当にお美しいです……」
メアリはうっとりとリラを眺めている。手伝ってくれた他のメイド達も大きく頷いていた。
「綺麗にしてくれてありがとう。メアリ」
メアリと目が合うと、二人でくすりと笑う。
「このメアリ、お役に立てて嬉しいです! さあ、ご夕食に向かいましょう。食堂まで付き添わせて頂きますね!」
食堂に到着すると、メアリがドレスの裾をさっと綺麗に整えてから扉を開けてくれる。食堂の奥では既に到着していたノアが席についていた。彼は手元の書類に目を落としている。
「お待たせいたしました」
膝を軽く折りお辞儀をして、リラは用意された席に向かう。
「いや。気にすることはない」
リラの到着に気付き顔を上げたノアは、手に持っていた書類を横に控えていたリオンに渡した。
リラはパーラーメイドが引いてくれた椅子に腰を下ろす。
「お帰りなさいませ。ノア様」
書類を片したリオンが皺一つない白いクロスが敷かれたテーブルに乗っているワイングラスに水を注いでいく。グラスに入っていく水を眺めながらノアは問う。
「……ああ。今日も変わりなかったか?」
「はい。皆様に大変良くして頂きました」
「そうか」
テーブルの支度を整え、リオンとメイド達が一度退室した。ふと波打つ水面から目を逸らしたノアは、紫水晶のような虹彩をリラに向ける。部屋に静かな低い声が響く。
「珍しいな。貴女がそんな風に着飾っているのは」
指摘されたリラは口早に言葉を継ぐ。
「ええと、メアリが勧めてくれて……。頂いたドレスが沢山あるので、折角だから着てみたのですが」
ノアは頷きながらリラの話を聞いている。口を動かせば動かすほど不安が強くなっていき、リラは視線を彷徨わせる。
「私らしくないですよね。やっぱりいつもみたいにワンピースの方が」
首を横に振ったノアはリラの言葉を途中で奪う。
「いいや」
ゆったりとした毅然たる声はリラの意識を惹きつけさせる。
ノアはやがて眩いものを見る時のように、目を細めた。形が良い薄い唇の端を緩める。表情の変化に乏しいノアがリラに初めて見せた、どきりとするほどに優しい表情だった。
「──良く似合っている」
絶えずその身に纏っている氷のヴェールが剥がれ落ちた彼から感じたのは、暖かく柔らかい色だった。
ほんの僅かではあるが、彼の素顔を垣間見たようだった。何だか気恥ずかしくなり、リラは思わず彼から目を逸らしてしまう。
「…………ありがとうございます」
それから何を食べ、何を話したのかは全く覚えていない。
ただはっきりとリラの脳裏に残ったのは、刹那彼がみせた、春風のように穏やかな色だけだった。