慌てた足音が扉の向こうから聞こえる。
「……ノア?」
聞き慣れた声と共に、遠慮がちに開かれた扉の隙間から温かな白い光が差した。底が見えない沼に堕ちそうな私を引き戻す、温和な灯。
リオンはつかつかと私に歩み寄る。踏まれた銀の欠片が小さな音を立てて粉々に割れていった。散ったガラスの破片の上で崩れている私の背に手を置く。
「息を吐け。ゆっくりで良いから」
息もまともに出来なくなっていた私に、リオンは長い時間付き添っていた。呼吸が整い始めた私は心臓の痛みを堪え、体を起こす。私が顔を上げるとリオンは目を見張った。
「……首の辺り、痛くはないか?」
「痛み? 特に無いが。何故?」
リオンは無言で手鏡を私に差し出した。自身の首筋を見た私は愕然とする。何も無かったはずの肌に、刺青のような真っ黒の痣が鎖骨にかけて広がっていた。
「あはは……っ!」
渇いた笑い声をあげ始めた私にリオンは絶句する。
「酷いな。最悪だ」
「お前、笑い事じゃない」
なおも笑い続けながら私は立ち上がる。慌てて腰を上げたリオンが不安定な私の体を支えた。
「笑わずにやっていられるか」
机が置かれている方を顎で指す。察したリオンは私をその方角へ導いた。机に備えられた椅子に私を座らせる。
目に涙が溜まる程笑い続けた後、私はぴたりと笑うのをやめる。
「はあ……。一人にしてくれ」
「その前に答えろ。首の痣は一体何なのか」
「大した事ではない。明日には消えている」
「そうだろうな。お前のことだから、何も無かったみたいに綺麗に消すんだろうな」
顔を顰めながら手を伸ばしたリオンは、黒い痣を隠すように白い手を重ねる。
「……発作が酷くなってきてるんだろう。違うか?」
「じきに治る」
リオンは溜息をつきながら私の首をそっと撫でた。
「それはもう何度も聞いた。治るどころか、酷くなっていく一方だ。いい加減話してくれないか。お前が発作を起こす度に、俺がどんな気持ちで見てきたと思ってる」
「私だってやりたくてやってる訳じゃない」
「そんなこと分かってる。話をすり替えるな」
「これは私個人の問題だ。お前が知る必要は無い」
リオンは首筋を撫でていた手で私の肩を強く掴む。
「……なあ、ノア。俺はそんなに信用ならないか?」
「何故そうなる? 信用ならないなどと言った覚えはない」
「よく分かった。もういい」
同情の目を私に向けたリオンの手を容赦なく振り払う。この男は私の煽り方を誰よりもよく分かっていた。
「私はその目を向けられるのが一番嫌いだ。お前に何が分かる? 話して何になる? どうにもできない事なのに。私の事は私が一番良く分かってる!」
痣の範囲が広がり、更に黒さを増していった。醜い首筋を手で覆い隠す。
感情が乱れれば乱れるほどに、制御が効かなくなっていく。自分の身体が、自分のものでは無くなっていく感覚。体を焼かれるような痛みと共に、少しずつ黒く塗りつぶされていく自我と蝕まれていく理性。
「そんなに知りたいのなら、話してやる。
お前の言う通り、発作は日毎に悪化していくばかりだ。周期が短くなっているだけに留まらず、体に痣まで出始めた。自身の内側に宿る力を制御出来ず、力に呑まれ始めている」
私はデスクの引き出しを引き、上に乗っている書類を退ける。ガサガサと紙を纏める音が静まった室内に響いていた。奥から小さな桐箱の中を取り出し、箱の中に入っている瓶を一本手に取る。薬を飲んでいることはリオンにすら話したことが無かった。
「こんな物に頼らなければ、私はもう普通の人間でいられない」
口に含むのも億劫で、飲む為に作られたとは思えない程苦い薬を呷る。無理やり喉の奥に押し込んだ。
激しい痛みと引き換えに首筋の痣が消えていく。乱れる息に酷い身体の震え。吐き出した鮮血が手の平に散る。とても見ていられない有様だろう。
体は薬の強い副作用に耐え切ることができていなかった。口元に付いた朱を袖で乱雑に拭う。手先の痺れも薬を服用する度に酷くなってきている。
「体がいつまで持つかも分からない。元々体が特別強い訳でもないしな。今は辛うじて保てている私の自我が、力に呑まれて完全に消える日も近いだろうよ。……これで気は済んだか?」
一息に言い切り、私は先程から一言も言葉を発さなくなったリオンの方を見る。
真っ白な頬にとめどなく流れていく涙が、私からも言葉を奪っていった。
「…………何故泣く。全く忙しいなお前は。慰めてやろうか」
「要らない。第一、なんで俺が慰められる側なんだ。逆だろ、普通」
「お前が泣くからだ」
リオンは小言を言いながらも、私が手を伸ばすと触れられる距離まで近付いてきた。
「よしよし」
私はリオンの腕を捕まえる。
「この際だ。一つ頼んでおきたい事がある」
温かい手を取り、それを自身の胸に当てた。
「私が堕ちた暁には、私を殺せ。力に呑まれ自我を失った肉体など、亡骸と同じだ。それは私ではない。だから少しも躊躇う必要はない。
──私は信じている。お前の事を誰よりも」
飴色の瞳が激しく揺らぐ。
「すまないな、こんな事を頼んで。だがお前なら出来るはずだ。理性が朽ちた私を止められるのはお前しかいない」
小さく笑った私に、リオンは崩れるように泣き付いた。
「出来ない。出来る訳ないだろう。この卑怯者」
私の服をきつく掴みながら、リオンは静かに泣き続けた。薬の副作用のせいで私の意識は睡魔に呑まれていく。
お前は知らないだろう。今の私が私で在れるのは、お前がいつも私を引き戻してくれるお陰だということを。
まだ、お前に伝えたい事が沢山残っているのに──
背を撫でてやっていた手から、緩やかに力が抜けていった。