「飲み物も買おうか。何が飲みたい?」
リラは小さな店を指差した。目立ちにくい店だが目を引くのは、人の行列が出来ているせいだ。
「コーヒーが良いです!」
挽きたてのコーヒー豆の魅惑的な香りに誘われ店に列に並んだ。自分たちの番が回ってきて、アイスコーヒーを二杯注文する。無口な店主が一杯ごとに豆を挽き、至高の一杯を淹れてくれる。時間を掛けて丁寧に淹れられていくコーヒーには店主の熱意が感じられる。行列が出来ていた理由がよく分かる。
店主から冷たいカップを受け取る。氷が浮いたコーヒーは今日のような暖かい陽気にぴったりだ。
「どこか座れる場所を探そう」
「はい」
近くに空いているベンチを見つけたリラは駆け足でそこに寄ると、彼を手招きした。
「此処にしましょう!」
並んでベンチに座り、出来立てのサンドイッチを食べた。
外はパリッと、中はむっちりとしたパンは食べ応え抜群だ。生地は弾力があるのに、重すぎるわけではなくとても食べやすい。気温のせいで柔らかくなり始めているバターもなんとも味わい深かった。薄切りの白っぽいハムにはスモークされた香りがついている。屋敷で食べる料理とはまた違った美味しさである。
ちょっぴり苦いコーヒーを飲んで口直しをしたリラはベンチを立つ。
「もう少し色んな物を見て回りたいです」
「分かった」
再び色んな露店を見て回った。見たことがない食べ物や、不思議な雑貨が沢山ある。何処を見ても興味を惹かれるものばかりだった。
周りを見回しながらふらふらと歩いていると、
「あまり余所見をしていると危ない。ここは人が多い」
周囲に気を取られていたリラは、右側を歩いている彼の方を見た。
「気になる物がたくさんあってつい……、きゃっ!」
長い袖が視界に割り入ったかと思えば突如、左腕を掴まれる。
そして、彼の方に強く引き寄せられた。
足がもつれ転びそうになり、紺のローブを強く掴んだ。厚い胸に抱き止められたリラは、何が起きたのかが分からず、混乱していた。
息を吸う度、一筋縄ではいかない苦さとキリッとした辛みが混ざった香りが鼻腔を擽る。オリエンタルな香りの中に、熟れた果実のような濃密な甘さが微かに添えられている。強さと包容力を漂わせる大人な香り。暑い日に付けるには向かなそうな複雑で重厚な香りが、彼の身体の上では美しい調和を保っていた。
近すぎる距離に頭が真っ白になる。心臓が大きく脈打っている。
そんなリラのすぐ後ろでバタバタと騒がしい足音が聞こえてくる。何事かと背後を見遣ると、子供達が物凄い勢いで後ろを走り抜けていく。かけっこをしていたようだった。賑やかな風がふわりと背に流れていく。あと少し避けるのが遅ければ、間違いなくぶつかっていたはずだ。
元気な子供達が通り過ぎるのを待って、彼はリラの左腕を掴んでいた力を緩めた。
「驚かせたな。すまない」
「……大丈夫です。ありがとうございました」
羽目を外しすぎた自分の行動が恥ずかしかった。赤面しており合わせる顔がなく、リラは下を向く。ローブを掴む手に一層力がこもった。
「……余所見してました。ごめんなさい」
依然混乱は収まっていない。長らく俯いたまま動けないでいると、
「…………リラ」
どこまでも響く艶やかな低い声だった。秋の風のように冷たく伸びやかで、穏やかな音色。
一度聞けば心臓を掴まれる声で名前を呼ばれると、周囲の喧騒はもうリラの耳には入ってこなかった。静かな世界の中でその声に応えるために、火照った顔をゆっくりと上げる。
「初めて、ですね」
リラの言いたいことが分からず、ノアは眉を寄せた。リラはくしゃりと顔を崩し、微笑む。
「──私の名前を呼んでくれたの」
ノアは指摘されて初めてその事に気付いたらしく、僅かに目を見開いた。
リラは彼の目をじっと見つめた。彼もまた菫色の瞳で此方を見ていた。彼の背後の青い空とは対称的に、その瞳の中だけは神秘的な夜空が広がっていた。
リラは一つ一つの音を確かめる様に紡ぎ出す。
「──ノア様」
リラの左腕に添えられたままになっていた彼の手が僅かに強張る。それからすぐに彼はそっとその手を離した。我に返り、恥ずかしさが増したリラは慌ててローブから手を離し彼から離れた。自分の心臓はまだ、トクトクとうるさく脈打っていた。
「…………行こうか」
それとなくリラから顔を逸らし前を向きながら彼は言った。
「……はい」
ぎこちない空気が漂うまま、通りの散策を再開する。動揺が収まらないリラは、浮ついた頭で足をただ前へ動かしていた。