「お疲れ様です、閣下」
ルージュの後ろから現れたリラに、にこやかに迎えられた彼は戸惑いを見せる。
「……貴女が何故此処に?」
リラは手に持っていた書類を彼の方に向けて渡す。
「これをお届けに参りました。大切なものなのでしょう?」
「これは……」
封筒を開けたノアは隙間から中身を確認した。
「此処に着いてから、枚数が足りないことに気付き頭を悩ませていたところでな。本当に助かった。恩に着る」
「どういたしまして」
無事書類を渡し終えたリラは、彼のことをじっと見つめる。
「……なんだ?」
すぐに視線に気付いた彼は封を締め直す手を止め、顔を上げる。
リラは一度深呼吸をして心を落ち着けると彼に告げた。
「その書類と引き換えに、閣下に一つお願いしたい事があるのですが」
何やら深刻な雰囲気を察した彼は姿勢を正す。リラから彼に直接頼み事をするのはこれが初めてだった。
「言ってみろ」
「では遠慮なく……!」
勢いに任せて、リラは肩に掛けていた小さなカバンを開ける。中から一本のペンと一枚の紙を取り出した。彼は怪訝そうにリラの手元を眺めていた。
リラは紙の上にペンを載せて彼に差し出すと真剣な顔で、
「こちらに受領のサインを頂けませんでしょうか?」
ノアは拍子を食らった顔をした。隣ではルージュが下を向いて、肩を震わせながら笑いを噛み殺している。
「……そんなものが欲しいのか?」
「はい。私は貴方のサインを頂きたいのです。確実に閣下にお渡ししたと証明できる物がなければ、渡したことをリオン様に信じてもらえないかもしれないでしょう?」
「ああ……。なるほど。承知した」
彼はリラからペンと紙を受け取ると、すぐ近くにあった壁を台にして左手で紙を抑えた。ペン先を紙の上に定め、一切の迷いなく大胆な筆記体を綴っていく。漆黒のインクで形造られた、清らかな流線美がある文字は真っ白な紙に良く映える。あくまでも実用面を重視したものでありながら、抜群のデザイン性があった。
「これで良いか?」
インクが乾いた事を確認し終えると、彼はリラにペンと受領のサインを入れた紙を返した。
「はい! ありがとうございます」
リラはそれを折り畳み、丁寧に鞄の中にしまった。
その様子を見ながらノアは、
「他に望む事は?」
他の願いを聞かれるとは思ってもいなかったリラは目をパチパチさせた。ルージュが横から口を挟む。
「流石にそれだけで終わらせるのは勿体ないですよ。ノアもこう言ってる事だし、何でもねだっておいたら良いと思いますよ。そうだなあ。例えば……、ノア、僕美味しいものが食べたいなあ」
ルージュは腕を後ろに組み、可愛らしくノアの顔を覗き込んだ。悪戯っ子のようなあざとさがある仕草は彼だからこそ許されるものだとリラは思った。自分自身の魅せ方をよく分かっている。
「貴方に聞いたわけではないのですが。後日用意しましょう」
「え、ほんとに? 嬉しい! 君が選んだ物って間違いなく美味しいんだもん。さ、お嬢様もどうぞ遠慮なさらず」
「うーん、そうですね……。では」
はしゃいでいるルージュを横目にリラは考える。既にノアからは十分すぎるくらいに多くのものを与えてもらっている。
他に今、リラが望むものは──
「──貴方のお時間を、少々私に頂けませんか」
「ほう?」
厳粛な面持ちで腕を組んだノアは長い指を顎に当てた。
「どこでも構わないのですが、お出掛けがしたいです」
「分かった。考えておこう」
願いを聞き入れてもらえたことに安堵しつつ、顔を綻ばせる。
「楽しみにしています。では、私はこれにて失礼致します」
「お気を付けて」
「助かった。改めて礼を言う」
「午後からのお勤めも頑張って下さい」
二人にゆったりと一礼をすると背を向けた。
リラの姿が見えなくなってから、ルージュはノアの肩に手を乗せた。
「よし。明日一日、君は仕事はお休みね。今日も早めに仕事を切り上げて帰ること! いいね?」
こうして、ルージュの取り計らいで急遽外出の日程が決まったのであった。
屋敷に戻ったリラは、鞄の中からサインをもらった紙と借りていた徽章をリオンに渡す。
「リオン様、きちんとお渡しして参りました!」
勢いに押されたリオンはそれらを受け取る。
「お帰りなさいませ。ありがとうございます。本当に助かりました。……ところで、これは?」
リオンは怪訝そうに折り畳まれた紙を眺めている。
「閣下にきちんとお渡ししたという証拠です」
折り目を開くやいなや、彼は笑いを噛み殺した。勇気を出してサインを貰ってきたというのに、笑われたリラは少々不服だった。
「……ルージュ様にも同じ反応をされたのですが。そんなに面白いですか?」
「いや……、これは傑作ですね」
「もう。私は至って真剣なのですが」
リオンはとうとう笑いを堪え切れなくなっていた。
「そうですね。申し訳ありません」
一頻り笑ってからリオンは言う。
「リラ様、両手を出して頂けますか?」
よく分からないまま両手を差し出すと、リオンはリラの掌の上に小さな袋を乗せた。
「私の代わりにお仕事をして頂いたので、少しばかりのお礼です」
中を覗くと重みがある袋の中には、数枚の硬貨が入っていた。彼は少しだと言っているが、それは十分過ぎるほどの金額だった。お出掛けの時のお小遣いに使わせてもらおうと心を弾ませる。
「良いんですか? ありがとうございます!」
手の中に閉じ込めた重みを感じながら、リラは小さな達成感で満たされていた。