そして夕食の時間になった。
この屋敷で過ごすようになってから、多忙なノアの帰宅が夜遅くなる時を除き、殆ど毎日ノアと食卓を共にしていた。一緒に食事をしたいとリラが希望したためだ。何を話せば良いものか分からず、ほんの一言、二言言葉を交わすだけで、しかも会話の内容も互いに報告をし合っているだけのようなものだったが、リラにとって食事の時間は日々の楽しみになりつつもあった。
しかし、今日は少し異なり、リラは普段以上に緊張しながら食事を摂っていた。前菜の皿に乗っているレタスをナイフで小さく切り分け、上の空で口に運ぶ。いつもは美味しいと感じる料理の味を今日は殆ど感じられない。前菜を食べ終えると、皿が下げられた。
メイドが例のスープをテーブルに運んで来る。何度見ても見た目は完璧だ。スープをスプーンで掬い、一口飲み込んだ。味を改めて確認してから、リラの向かい側に座っているノアの様子を伺う。
彼はリラよりも少し遅れて、スープを口にした。スープを口にするやいなや、彼は眉を寄せ何かを考えるように首を傾げた。
リラの不安は的中したようだった。この屋敷で出される食べ物や飲み物の美味しさは一級品である。ノアは多忙な立場にあるにも関わらず、茶葉の選別を自ら行うほどだ。繊細な感覚を持っているであろう彼は、口にするものに並々ならぬ拘りがあるに違いない。やはりこの程度のことでは彼の味覚を誤魔化しきることが出来るはずもなかった。失敗した料理を出すなど失礼に値する。
彼はスプーンを置き、食堂の入り口でメインディッシュの仕上げをするために待機していたシェフを手招きする。
「このスープを作ったのは?」
気品が溢れる声で尋ねられたシェフはケロリと答える。
「パトリックだ」
「あの少年か。此処に呼んでくれ」
シェフがパトリックを呼びに食堂を出て行く。全身の血の気が引き始めたリラは食事の為に動かしていた手を完全に止める。やはりあのスープを彼の前に出すべきではなかったと後悔の念に駆られていた。
シェフに連れられ食堂に入ってきたパトリックはひどく萎縮していた。初めて調理を任された日にノアから直々に呼び出しを受けたのだ。リラは申し訳なさでいっぱいだった。
「これを作ったのはお前か?」
「そ……うです」
青ざめているパトリックは俯きながら返答する。ノアはパトリックを値踏みするような目線を投げる。
「普段口にしているものとは趣向が違うと思ってな。以前に私に料理を出したことはあるか?」
「……ありません」
「やはりそうか」
彼はパトリックから視線を外す。表情を些か崩すと、押しこもった声で言った。
「……ふっ、大したものだ」
彼の整った貌から創り出される感情が読めない笑みは見ている者に酷薄さすら感じさせる。息もつけないほどに張り詰めた空気に押し潰されそうなパトリックは深々と頭を下げる。
「このような物をお出ししてしまい、大変申し訳ございません! すぐにお下げいたします」
「先日もだが、いつ私がお前に謝罪を要求した。此方を向け」
有無を言わさぬ物言いに、パトリックは恐る恐る頭を上げた。彼は今にも泣きそうな目をしている。
「私はお前を叱責したいわけではない」
ノアは右手で一度自身の黒い髪に触れた。詩でも詠んでいるかのように、言葉が淀みなく連ねられていく。
「馥郁たる香りに反して、少々味に棘がある。そして、それを和らげるために手を尽くしたのであろうことは一口飲めば分かる。だが、単に複雑に作り変えれば良いというものではない。複雑にすればするほどに、かえってそれが邪魔になることもある。素朴な材料のみを加える事で、これが本来持っていた良さ自体は損なわぬように策を講じたか。
よくここまで作り変えられたものだ。私はお前の努力を頌そう」
「……えっ?」
言葉の意味を飲み込んだパトリックが間の抜けた声を発する。安堵したことで、リラも全身の緊張が解けた。ノアは一度は置いたスプーンを持つと、スープを再び口に運んだ。
「ん。悪くない」
ノアの手元を目で追いながら、パトリックがおずおずと口を開く。
「……恐れながら申し上げます、当主様。これを作り変えたのは僕じゃありません」
ノアは無言で続きを促す。
「僕が作った、苦くて食べられたものじゃないスープを作り変えたのはリラ様です」
二人の視線がリラに向けられる。
「そうだったのか。素晴らしい腕だ」
「……お褒めに預かり光栄です、閣下」
リラは椅子に座ったままで少し頭を下げる。
パトリックが見ている前で、ノアは楚々とした優艶な所作でスープを全て飲み干した。メイドに皿を下げさせると、彼は唖然としているパトリックに話しかける。
「次は、お前自らが作ったと胸を張って言えるものを出せ」
「はい……?」
「もう一度言ってやろう。──次も期待している」
パトリックの表情が次第に明るくなっていく。目を輝かせ、彼は初めてノアの目をしっかりと見据える。
「寛大なお心遣いに感謝申し上げます! 次こそは美味しいと思ってもらえる物を提供出来るように頑張ります!」
威勢の良い返事を受け取ったノアはパトリックを場から下がらせた。メインディッシュの仕上げを終えると、シェフも厨房に戻ってしまったので、静かな食堂には彼とリラだけが残された。
特に会話もなく、二人で黙々と食事を続けていたが、終わりに差し掛かった頃、ふいにノアが口を開いた。
「私は明日から数日、家を空ける。私が居ないからといって変わる事も特にないだろうが、一応伝えておく」
「承知致しました。お気遣いありがとうございます」
食後の紅茶から漂う、爽やかでほろ苦い柑橘の香りが食卓を包み込んでいた。