──翌日
カーテンの隙間から淡い光が差し込む。小鳥が囀り始めていた。ノアは光に導かれるように窓に向かうとカーテンを開ける。一気に室内が白光で照らされる。眩しさに目を細めた。昨日の豪雨が嘘のように、寸分の翳りもない青い空が広がっている。遠くに見える街は、まだ人々が営みを始めておらず閑散としていた。
振り返るとルージュは気持ちよさそうに伸びをしていた。
「夜が明けたね。随分と長い間話し込んじゃった」
ノアは窓枠に浅く腰を下ろした。背に当たる太陽の光がほんのりと温かい。
「そうですね」
「こんなに君と話したのは久しぶりだなあ。時間が経つのを忘れてしまっていたよ。ごめんね、長々と付き合わせて」
「お気になさらず」
ルージュは机に置いてあったクッキーを摘む。それを口に入れると頬を緩める。見ている者までも温かい気持ちにする幸せそうな表情だった。なんの変哲もないクッキーだ。ただのクッキーをそんなに幸せそうに食べられるものなのだろうか。
「昔からお好きですよね。甘い物」
彼は大きく頷きながら、のんびりとそれを咀嚼している。いいことを思い付いたと言わんばかりに目を輝かせ、それらが載った皿をノアの方に差し出した。甘い物を自ら好んで食す事は無かったが、今日に限っては不思議と気分が乗った。窓枠から腰を上げ、白い皿に腕を伸ばすとクッキーを一枚摘み上げる。黄金色の丸いクッキーからは香ばしいバターの香りがした。噛む度にさくりと軽い音を立て、口の中で解けていく。シャリシャリとした砂糖の食感が小気味良い。濃い目に淹れたコーヒーか紅茶が欲しくなる味だ。
クッキーをじっくりと味わい終えたルージュが口を開く。
「へえ、珍しいね。君、甘い物嫌いでしょう? てっきり食べないと思ってた」
「自らの意志で食べたいと思う事がないだけです」
「……それって、嫌いってことじゃない?」
複雑な顔で言いながら、ルージュは再びクッキーを口に運んだ。黙々と皿の上を空にしていく彼を見ていると段々と空腹を覚え始める。
「そろそろ朝食にしましょうか」
ノアが執事を呼ぼうとしたちょうどその時──
「………………ん……」
聞き慣れない小さな呻き声。長らく意識を失っていた彼女が目を覚ましたらしい。
ノアはたちまち彼女のもとへ向かう。薄く開かれた目から若葉が萌ゆるような翠緑の瞳が覗いている。軽く首をもたげてノアを見ながら小さい唇を動かす。止まっていた時が動き始める。
「…………だれ?」
甘く透き通った声だった。
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──声が、届かない。
喉を引き絞り声を出そうとする。だが、浮かぶ言葉は泡のように消えていく。
引き攣れた喉が苦しく、肺に酸素を取り込もうと必死にパクパクと口を動かした。
──ああ、まるで、溺れているみたい。
手を伸ばす。
──お願い、私をここから出して。
掌はただ虚空を掴むだけ。誰も助けてなんてくれない。そんなことは分かってる。
それでも私は求めてしまうのだ。
いつか檻から私を出してくれる『誰か』の存在を。
枷を嵌められた意識は深い水底へと落ちていく。沢山の声が遠く木霊する。割れてしまいそうに頭が痛い。もう何も考えられない。
誰も、私の存在になんて気づいてくれない。
誰も、私のことなんて分かってくれない。
誰か、私を────
水底に堕ちていく私を引き止めるように、誰かが私の腕を掴んだ気がした――
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段々と淡い光が差し込んでくる。光が絡みに絡んだ枷を外していく。私の意識は水面へと上昇していく。
「………………ん……」
漸く軽くなり始めた身体。緩々と目を開けると、青い天井が広がっていた。本当に水の中にいるみたいな心地がする。一体此処はどこなのか。
ぼうっと天井を見つめていると、無表情な青年が青い視界の中に割って入った。
硬質でサラサラとした髪は黒色をしており、少し目尻が上がったはっきりとした目は髪と同じ色合いの長い睫毛で縁取られている。透き通った理知的な紫の瞳が、彼の黒髪と白い肌が相まって相対する者に冷たい印象を抱かせる。右側の目を隠す長い前髪が、希薄な表情を更に分かりづらくしている。整った形をした唇は引き結ばれており、左の耳元では黒い石が付いた、チェーンのピアスがキラキラと揺れている。
他と一線を画する、触れ難い冷酷な美貌の青年だ。
(──綺麗な、人)