「…………っ」
大きく息を呑む。長い沈黙の後、驚きのあまり足を一歩後ろへ引いた。柔らかく水っぽい泥土の不快な感触が足に伝わる。咄嗟に腰に差していた長剣の柄に右手をかけ、それを抜こうとした。しかし、直ぐに手を止める。
目の前に横たわる人の身体は剣を受け止めるには余りにも細かった。
ノアはあと一歩の所までその人に近づき、側にしゃがみ込んだ。
──その人は女性だった。
絹糸のように柔らかそうな麗しい銀色の髪。
丸みを帯びた小さな額。
髪と同じ白銀の長い睫毛。
くっきりとした細い鼻筋。
軽く閉じられた厚みのある唇は、彼女が長時間この場所に居たことを表すように薄ら青く変色し、透き通るような肌が更に顔色を白く際立てている。純白のドレスが雨のせいで彼女の長い肢体にぴたりと張り付き、身体の上で緩やかな曲線で描いていた。
彼女の額に張り付いた前髪からぽたぽたと雫が滴り、頬を伝い流れ落ちていった。滑らかな白い肌を雨粒がサラリと撫でていく様は現実とは思えぬほどに艶やかで、ノアは彼女から目を離すことが出来なかった。
「……大丈夫、か?」
浮かんだのはありきたりな言葉だけだった。
「…………………………」
意識を失っている彼女からの応答はない。恐る恐る彼女の口元に手を伸ばす。弱くはあるが、息があることに安堵する。脈を測ろうと華奢な手首に触れても彼女は全く目を覚ます気配が無かった。
ノアは一旦彼女の側を離れ、結界の方向を振り返る。胸元に付いていたオレンジのヘリオライトが輝いているバッジを外した。右手に乗せ、結界に近づけると、中央のヘリオライトは淡く発光した。
(……異常はない、か。だが──)
結界の確認を終えたノアはもう一度彼女の方を見る。一つの考えが頭に思い浮かんだ。
──彼女はこの結界を超えたのではなかろうか。
真偽は分からない。それに結界を超えることが可能であるとは思えない。不可能な事だと頭で理解してはいるが、自分の中の直感が強くそう囁くのだ。
辺りはどんどん冷え込んでいく。
寒い雨の夜だ。彼女を此処に置いて行くような惨いことなど出来るわけもなかった。それに彼女に尋ねねばならない事も多い。
ノアは悴んで思い通りに動かない手で彼女の肩を起こし、細く軽い身体を引き寄せる。すっかり冷たくなってしまっている彼女を抱き上げた。
まだまだこの雨は続きそうだ。一先ず彼女を屋敷に連れて帰ることにした。
森の入口に戻り、待たせていた馬に彼女を抱き抱えたまま跨る。そして屋敷の方へ手綱を向け、道中ノアは考える。
彼女は何故結界の付近で倒れていたのか。一体いつから倒れていたのか。
一刻でも早く彼女を暖かい場所へ。力が抜けた身体をなるべく雨から庇ってやりながら、必死に手綱を握った。
屋敷に到着する。
ノアはぐったりとしている彼女を抱いたまま、馬から降りる。ノアがエントランスに足を踏み入れると、長い髪をした執事は恭しく礼をする。美しくありながら一寸の隙も見せない動きだ。
「お帰り、ノア。ずぶ濡れだな」
「ああ。かなりきつく降られた」
ノアは髪から滴る雨水の煩わしさに小さく頭を振る。執事はタオルを手渡しながら、訝しげに首を傾げる。
「その方は?」
左手でタオルを受け取り、濡れた顔を拭う。
「結界の側で倒れていた。至急医者を呼んでくれ。それと、ルージュ様に直ぐ此方に来て頂けるよう連絡してくれ」
「分かった。俺が連絡を入れる間にその方を客室に運んでおいてもらっても?」
ノアの了承を得るやいなや、執事はメイド達にテキパキと指示を出し始める。
突然の出来事に戸惑っているメイド達を連れ、ノアは客室へ向かった。彼女をそっとベッドに横たえる。
「じきに医者が到着するはずだ。その前に彼女を着替えさせてやってくれ。随分長い間雨に濡れていたのだろう、身体が冷え切ってしまっている」
「承知しました、旦那様」
メイド達は急いで準備を始めた。
慌ただしくなった客室を出て自室に戻る。濡れて重くなった上着を脱ぎ、着替えを済ませる。タオルで髪を拭いていると扉越しに声がした。
「ノア、ルージュ様が到着なさった。手配した医者も到着し、診察を始めている」
「分かった、直ぐに向かう」
ノアはタオルを肩にかけたまま部屋の扉を開けた。濡れたままの髪を見た執事は眉を顰める。
「……先に髪を乾かせ。風邪を引くぞ」
「これぐらい何とも無い。そんなことよりも彼女の容態は?」
「大事はなさそうだ」
「そうか。なら良い。応接室に行く」
ノアがタオルを肩から外し執事に押し付けると、彼は溜息をつく。
「……全く。人の話を聞かないやつめ」
押し付けられたタオルを手慣れた様子で畳みながら、執事はノアの背を追った。
応接室に向かうと、ルージュは優雅に紅茶を飲んでいた。彼はノアの姿を目にすると、手にしていたティーカップを置いた。
「やあ。さっきぶりだね、ノア。……確かに雨は酷かったけど、何があったらこんなにびしょ濡れになるんだ。僕が家まで送ってあげれば良かった」
彼は椅子からスッと立ち上がり、側までやって来た。
「ごめん、ちょっと触るよ」
ルージュはノアの濡れた黒髪に手を伸ばす。髪を指でサッと透くと、ふわりと暖かい風が起こる。乾いた黒髪が彼の指先をサラリと落ちていった。隣では執事がしたり顔でこちらを見ていた。
「……申し訳ございません」
「ううん、気にしないで。それにしても君の方から僕を呼び出すなんて珍しいね。何があったの? 早速だけど本題に入ろう」
ルージュは黒髪から手を離すと、赤い瞳でノアを射抜いた。執事は深刻な雰囲気を察し、そそくさと応接間から去っていった。ノアはルージュに席に着くよう勧めると、自身も向かい側に座った。
「話が早くて助かります。実は……」
ノアは事の経緯をルージュに話した。彼は大きな目を丸くしながらも、黙って話を聞いていた。
「へえ。そんなことが」
「はい」
「大体は理解したよ。大変だったね。とりあえずその人のところに案内してもらってもいい? 彼女に会わないことには、どうしたらいいか判断しかねるかな」
「そうですね。此方へどうぞ」
席を立ち、ノアはルージュを客室の扉へと促した。
「……なるほどねえ。この人が」
ルージュは医者を診察を終え、客室のベッドに横になっている彼女の横に立ち言った。ノアは黙って頷く。
「はぁ、これはまた綺麗な子……」
ルージュは彼女を不思議そうに眺めている。いつの間にか再び現れた執事が二人の後ろから口を挟む。
「医者の話では、おそらく明日には目を覚ますのではないかということです。ただ少し弱っているので、目覚め次第薬を飲ませるようにと言われました」
「うわ! びっくりした」
彼女に気を取られ、全く執事の気配に気付いていなかったルージュが肩をぴくりと跳ねさせる。何食わぬ顔の執事は彼に尋ねる。
「その方がお目覚めになるまでの間、此方でお待ちになりますか?」
素っ気無さすら感じる口調で
「うん。そうだね。お言葉に甘えさせてもらおうかな」
「承知いたしました」
執事が礼をして退室する。パタリと扉が閉まる音がするとルージュは振り返った。
「折角できた時間だから、久しぶりにゆっくり話でもしようよ。ノア」
間も無く執事が茶器とティーポットを持って戻ってくると、ルージュはソファーに深く腰を下ろす。執事がティーポットから茶を注ごうとするのを、いいよ、とルージュは制した。自らの手でガラスのティーカップに橙色の液体をひらひらと注いでいく。ふわりと華やかな香りが漂った。彼は憂げに目を伏せ、ティーカップを見つめる。
「……ああ、この香り。懐かしいな」
彼は紅茶を注いだティーカップの一つをノアの方に置いた。白い湯気が水面からゆらゆらと立ち込めている。
「さあ、何から話そうか?」
彼は机に身を乗り出し、人懐こい笑顔を溢したのだった。