静寂の中、紙をめくる音とペンで文字を綴る音だけが響いている。
黒い髪の青年は積み重なった書類を手に取り目を通していく。片手に書類を持ったまま、ペンを黒いインクに浸した。
ちらとペンを一瞥する。細いガラスペンの中を滑るようにインクが吸い込まれる。透明なガラスは黒く染まっていく。
読了のサインを入れ、書類を手早く処理する。書かれているのは変わり映えのしないことばかりだった。一つたりとも彼の興味を惹くものはない。全く愚かで芸がない紙の束。見飽きたそれらに目を通すのは退屈で、疲れを感じてしまう。
青年は一度ペンを机に置き、気怠げに肘をついた。
全ての書類に目を通し、報告書をまとめ終えると、青年は息をついた。ふと、窓の外を見る。太陽は既に地平線へと沈み、暗くなり始めていた。部屋の中を見渡すと、いつの間にか自分を含めて二人しかいない。
部屋に残っているもう一人、ブロンドの髪の青年は紙面に目を落としたまま、黒髪の青年に話しかける。彼の机の上には、まだ分厚い書類が積み重なっていた。
「お疲れ様、ノア。最近働き詰めだから疲れたでしょう」
「ご心配には及びません。それ、お手伝いしましょうか?」
「いや、大丈夫。もう十分手伝ってもらったし、後は僕が何とかする。あ、でも一個だけ頼みたい仕事があった」
「何なりと」
「森の結界の確認、お願いね」
ノアと呼ばれた青年は散らかったままになっていた書類を纏め、机上の箱に入れながら、苦笑いを浮かべる。
「それは頼みに入りませんよ。元々私に任されている仕事の一つですから」
腰を上げたノアは椅子の背に掛かる上着を腕を通す。胸元に幾つもの金色のバッヂが付いているそれを羽織ると、肩にずっしりとした重みがかかる。
「ですが、確かに承りました」
ブロンドの髪の青年は一度書類から目を離し、ノアの方を見る。目を軽く細めた。
「ありがとう。任せたよ、ノア」
呟くように言って、ヒラヒラと手を振った。
彼に別れを告げ、ノアは廊下に出た。
ひんやりとした空気が肌を包む。いつから降っていたのだろう、紙をビリビリと引き裂くような雨音が鼓膜を叩く。結界のある森の方を眺めてみるが、雨粒のせいで白く霞んでよく見えない。気が重くなる様な天気だ。
ノアは厩舎に向かって歩き始めた。
厩舎に到着する。
繋がれている馬の中でも一際目立つ美しい栗毛の馬に近づく。馬は主の姿を見ると嬉しそうに嘶いた。
「待たせたな」
ノアは慈しむ様に馬の立て髪を撫でる。馬は気持ちよさそうにその手に身を委ね、頬を擦り寄せた。
「森の結界を確認してから、屋敷に戻る。道中頼めるか?」
その問い掛けに馬は高らかに一声鳴いた。
ノアは頷き、手早く鞍を取り付ける。長い脚で軽やかに馬に跨った。
手綱を引くと、森に向かって馬は風の様に走り始める。
大きな雨粒がノアの身体を濡らす。体に洋服が張り付いていく。水に濡れた洋服は少しずつ重さを増す。ふと前髪を伝う雨水が地面に落ちた。
ゆらゆらと漂う濃密な雨の匂いが肺を満たす。辺りの闇は段々と深まっていく。
十分程馬を走らせ、結界の森の入口に着いた。一番大きな木の下で馬を止める。深緑の葉が我よ我よと生い茂る木の下だけは不思議と雨が止んでいるようだった。湿った土の上に脚を下ろしながら馬に語り掛ける。
「此処で少し待っていてくれ。結界を見てくる」
入口から五分程歩いた所に結界はある。
それはノアが暮らすティフィア帝国と、隣国であるレオリス王国の国境になっているもので、特別な魔術によって作られている。
元々この結界は、両国間を民衆違法に行き来するのを禁ずるために作られたものである。違法な往来は両国の治安を乱す原因になるからだ。人間はもちろん、小さな動物や虫さえもその結界を通り抜けることは出来ない。
もし隣国に行きたければ、国家間で公式に認められている関所を通ればよく、そこではややこしい手続きや大層な検問があるわけでもない。ゆえにわざわざ自ら結界に近付く者などいない。
そして、結界と呼んではいるが、それは目に見えるわけではない。ただ結界の張られている場所を越えようとすると、見えない『壁』に行手を阻まれ、それ以上先には進めなくなるのだ。結界を越えようとした者に何らかの罰則を伴う訳でもない。ただの透明な壁、というのが適切だろうか。
帰宅した後の予定について考えつつ、足早に結界に向かう。心此処に在らずな様子で肩で風を切っていたノアはふと何かの気配がすることに勘づく。歩く速さを落とし、周囲を見回す。暗闇に馴染み始めていた目が、結界のすぐ側に『黒い影』を映した。しかし、目を凝らしてもその正体はよく分からない。
何度も結界の確認には来ているが、今まで問題があった事は一度も無かった。
──結界に異常が発生したのだろうか。
僅かに警戒心が芽生える。
足音を殺し、一歩、また一歩と、慎重に『黒い影』に近づいていく。少しずつ顕になっていく影の輪郭。雨粒が地を穿つ音が激しくなっていく。心臓が早る鼓動を鳴らしていた。
そして、影まであと数歩のところで足を止め、ゆっくりと視線を下に落とす。
──影の正体。それは人だった。