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第60話

 リュートと別れ、自室に戻ってから数刻。

 それでもいまだに私の意識はぼんやりしていた。

(……婚約者)

 婚約者。

 元の世界では創作の中でしか聞かなかったであろうワードが、私の人生の前に立ちふさがってきた。

 その衝撃を消化できずにいたのだ。

(ふ、普通に考えたら私のためよね……?)

 とはいえその意味合いを理解できないほど馬鹿じゃない。

 別にリュートは面白半分でこんな決定をしたわけではないだろう。

(婚約者候補に選ばれたという事実は、私が信頼を得ていることの証明になる)

 魔族の中でも有力な家系の令嬢が選ばれる婚約者候補。

 そこに数えられることになれば。

 それは、リュートが私を彼女たちと同程度には信頼していることを対外的に示すことができる。

 これまではただの客人であった私を、さらに近しい存在として扱うということだ。

 その事実は私が想像している以上に私のことを守ってくれることだろう。

(本当に結婚するつもりとは思えないし、私の立場をしっかりさせるためってことなんだよね)

 ここでリュートが本気で私と婚約を望んでいるだなんて勘違いを起こすつもりはない。

 そもそも、あくまで候補なのだ。

 いくらでも別の女性を選ぶことができる。

 逆に言えば、私を候補の1人にねじ込んだところでそれほど問題もない。

 だからこそ私の地位を確立する手段として便利だったのだろう。

 とりあえずは婚約者候補としてしばらく私の身を守り、その間に私が自分で立場を固めてゆく。

 そんなところか。

「――ちゃん。――ちゃん?」

(結婚……ねぇ)

 なら、なぜここまで思い悩んでいるのか。

 それはシンプルに、結婚というある種で人生最大級の岐路となるものを思い出してしまったからだ。

(これまではとりあえず生存第一だったし、そういうことを考える暇もなかったわね)

 正直、元の世界ではそこまで結婚は必然性のあるイベントではなかっただろう。

 恋人もいなかったし、それほど結婚というものが魅力的には思えなかった。

 それよりも自由に暮らしているほうが性に合っていると思っていたのだが――

(別に興味がないわけではないけれど)

 もちろん興味はある。

 ただ人生を賭けるほどの魅力を感じていないというだけで。

(だからといって婚活するほど執着もないし)

 興味はあるが、自由や気楽さを捨てるほどの価値を感じない。

 そんな感じだ。

(でも婚約者候補っていう肩書が役に立つのもリュートが実際に結婚するまでだし、それまでにある程度頼りになる後ろ盾はいるのかしら)

 とはいえ後ろ盾を選ぶ手段として結婚――というのはちょっと嫌だというか。

 白馬の王子様を待つほどロマンチストじゃない。

 だけど理想を外れ、無理をしてまでするほど結婚という生き方を重視していない。

 理想の結婚ならしたいけど、そうじゃないなら別に……とでも言うべきか。

 とはいえ元の世界よりも身分や力による影響力が大きなこの世界観では、身を固めることも考慮――

「エレナちゃん!」

「はいっ!」

 唐突に思考を遮ったリリの声。

 思わず私は椅子から立ち上がった。

「あ、やっと聞こえたんですねっ」

 リリはそう苦笑していた。

「え?」

「さっきから何度も呼んでいたんですよ?」

「そ、そうだったの……?」

 どうやら考え事をしている間に、彼女は何度も声をかけていたらしい。

 思い返せば何か聞こえていたような気もする。

 あれはリリの声だったわけだ。

 思えば眼前にある紅茶のカップからはすでに湯気が出ていない。

 せっかく準備してもらっていたのに冷ましてしまったようだ。

 申し訳ない。

「ずっとボーっとしてどうしたんですか?」

 そんな疑問をぶつけてくるリリ。

 あいにくと私はテキパキした人物ではないだろうけれど、さすがに日頃から今日ほどぼんやりしているわけではない。

 普段から世話をしているリリが異変に気付かないはずもない。

「それは――」

 特に隠すことではない。

 そもそも隠せることではないし、舞踏会のための準備を彼女に頼る以上は隠すメリットがない。

 ただの参加者と、婚約者候補では装いにも違いが出てくるかもしれないのだから。

 そう思い口を開くが――

「ごめんなさいっ。やっぱり言わなくても大丈夫ですっ」

「……え?」

 事情を離そうとした矢先。

 なぜかリリに回答を拒否された。

 一応、彼女から聞かれた質問だったはずなのだが。

「ううぅ……。あんなことがあったばかりですからねっ……! 傷心していても当然でしたっ……! 今の質問は忘れてくださいっ……!」

 よよよ。

 そんな表現が似合いそうな様子でリリは目元を拭っている。

「ええ……」

(もしかしてソーマがいなくなってショックを受けてると思われてる……?)

 当初から、リリは私がソーマに好意を抱いていると勘違いしている節がある。

 その誤解が健在だとすれば、私の悩みの原因が彼との離別にあると想像するのも無理からぬことかもしれない。

(まあソーマを心配する気持ちがないわけじゃないけど、原作シナリオに比べたらマシなのはほぼ確定だったし。そこまで引きずってないんだけどなぁ)

 最悪でリュートに敗北して死亡。

 それを避けても、今度は一時期とはいえ一緒に生活をした魔族を皆殺しにしたという十字架を背負いながら日本へと帰還。

 それに比べれば、あのまま日本へと戻れたのはかなり穏便な結末だったはずだ。

 おそらくリリが想像しているほど傷心してはいないのだが。

「そうですっ。甘いものっ。甘いものを食べましょうっ」

「え、ええ……?」

 飛びつかんばかりにそう提案してくるリリ。

 甘いもの自体は好きなので、彼女の申し出を断る理由はない。

 とはいえなんというか……圧がすごかった。

 なかば無意識に頷いてしまうくらいには。

「そうなれば早速明日ですねっ。ちょうどアンネローゼ様も城にいらっしゃいますし、お休みをいただいてきますっ」

「……そんなにいきなり休めないでしょ」

 そうため息を漏らす。

 この世界に労働法があるかは知らない。

 しかし、いくら私の世話係をメインの業務としているとはいえ、いきなり休暇を取ることは不可能だと思うのだが。

「いえ、多分大丈夫だと思いますよ? 魔王様が、ここ数日は特にエレナちゃんの様子を気にかけるようにとおっしゃっていたので。エレナちゃんと一緒に行動するためなら問題はないはずです」

 ……と思ったが、どうやらある程度の勝算があっての発言だったらしい。

 それにしてもリュートがそんな話をリリにしていたとは。

「魔王様もエレナちゃんとソーマさんの関係を気にかけていらっしゃいましたから。やはりエレナちゃんのことが心配なんだと思います」

「……多分違うと思うんだけど」

 自己完結して頷いているリリに呆れた視線を向ける。

 どうせ彼女は気付かないだろうけれど。

(女神の試練でエレナと対面したから、私の体に悪影響が出ていないかを気にしているのかもしれないわね)

 それとも、女神としての力を行使したことが原因か。

 ともあれ先日の件で、私はかなり異常な体験をいくつもしてしまっている。

 常識では測れない異常があるかもしれない。

 彼がそう考えるのも自然なことだろう。

(まあでも……心配されている、っていうのは間違いじゃないのかしら……?)

 仮に私の体に何かが起きたとして。

 それがリュートを脅かす可能性なんて皆無に等しいのだから。

 それでも気にかけるというのは、彼の優しさにほかならないだろう。

「ということで明日は美味しいものを食べに行きましょうっ」

 リリが嬉しそうに笑う。

 太陽のような笑み。

 向けられるだけで自分を肯定してもらえたような気分になれる明るい笑顔。

 それを拒絶できるはずもなく。


「……そうね」


 誤解を解けぬまま私は彼女の提案に同意するのだった。



 そう。

 同意してしまったのだ。

 こればかりは仕方がない。

 もうこの世界はシナリオをとうに外れてしまっているのだから。

 ゆえに未来を見通すことなど私には出来なかったのだから。

 だが、それでも思う。


 ――この選択がすべての始まりだったのかもしれない、と。

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