「あなたは……」
私は思わぬタイミングで現れた原作キャラに戸惑っていた。
アンネローゼ=ハート。
聖魔のオラトリオReverseにおけるライバルキャラだ。
いわば、前作における私のような立ち位置のキャラだ。
とはいえ、それは彼女の人格がエレナと似通っていることを意味しない。
彼女を一言で形容するのなら、誇り高き貴族。
自他に厳しく、揺るがないプライドを持った令嬢だ。
その生き方は気高く、ライバルキャラにもかかわらず人気があった。
主人公が誰とも結ばれることなくアンネローゼとの友情を育むルート――いわゆるお友達エンドを推すファンがいる程度には。
作中のヘイト役として大活躍したエレナとは対称的な人物だ。
「下品ね」
アンネローゼは眉をひそめる。
その表情には軽蔑の色が宿っていた。
「あなたたちの下品な振る舞いが、魔王様を貶めることになるという自覚はあるのかしら?」
「それは……」
メイドたちがたじろぐ。
それも仕方のないことだ。
アンネローゼは魔王リュートの婚約者候補筆頭――つまり、魔族たちのコミュニティにおいて絶大な影響力を有する魔族なのだ。
一介のメイドが太刀打ちできるような相手じゃない。
「言い訳はいらないわ。さっさと仕事に戻りなさい」
心底つまらなそうにため息を吐くアンネローゼ。
「は、はいっ……!」
たったそれだけのことでメイドたちは青ざめてそそくさと退散してゆく。
アンネローゼの不興を買うことは、それほどに恐ろしいことなのだろう。
彼女が現れた。
それだけで膠着しつつあった状況が一変してしまったのだ。
「ありがとうございます」
私はアンネローゼに頭を下げる。
彼女がいなければ事態の収拾に手間取っていたことだろう。
だからこそ口にした感謝の言葉だったのだが――
「勘違いなさらないで」
彼女はぴしゃりと言い放つ。
――勘違いしないで。
それはツンデレ構文というわけではなく。
「わたくしは、あなたのことが心底嫌いですの」
明確な拒絶だった。
☆
……あんな美人に蔑んだ目で見られたら地味にショックね。
アンネローゼは美人系の顔立ちなので、睨みにも相応の迫力があった。
特殊性癖のプレイヤーなら喜んでいたかもしれないが。
自室で食事を終えて1時間は経っただろうか。
ふと、去り際にアンネローゼが見せた表情を思い出す。
あれは嫌悪なんて言葉では足りない、憎悪の目だった。
私は残念ながらMではないので、原作キャラにあそこまで嫌われているのは少し気落ちしてしまう。
「あの……先程のことはあまり気にしないでください」
そんな私の様子を見かねたのだろう。
リリがおそるおそるそう言った。
「アンネローゼ様は優しい方なのですが、少し言い方が厳しくて……」
――私もよく怒られちゃうんです。
苦笑しつつリリがそうフォローした。
フォロー。うん、多分フォローしたのだろう。
気持ちだけは受け取っておく。
「彼女のように思っている人が多いことは最初から分かっていたことだもの。気にしてないわ」
だから私は微笑みを返した。
まったく気にしていないと言えば嘘になるが、覚悟はしていた。
だから実のところ、私もそこまで傷ついてはいない。
ファンとして原作キャラに嫌われているのが少しショックだっただけで、他の魔族から同じ対応をされていても「ですよねー」くらいの感想しか持たなかっただろう。
なにせ私自身が、アンネローゼたちが抱いているであろう感情に正当性を見出してしまっているのだから。
(アンネローゼはリュートを敬愛しているのよね)
魔王リュートはすぐれた王だ。彼に心酔しきっている部下も多い。
アンネローゼが誇りを重んじているのも、彼にふさわしい自分であるためだ。
そんな魔族たちから見て、私の存在はどうだ。
私欲のために同族を裏切る意地汚さ。
リュートの敗北の原因となる無能さ。
それでいて、彼の庇護下に入ろうなどという面の皮の厚さ。
スリーアウトなんてレベルの話じゃない。
……リュートの客人という立場がなければ、5分後には八つ裂きにされていそうだ。
魔族の視点で、許される要素が1つもない。
(エレナなんて、彼女からしたら絶対に受け入れられない相手よね)
まして、リュートを敬愛しているアンネローゼからするとなおさらのこと。
あれを「嫌い」の一言で済ませてくれたのは温情でしかない。
「ねぇ」
そんなことを考えていると、部屋の扉が開く。
……ノックの音を聞いた記憶はない。
一応、客人の部屋だと思うのだけれど。
やはり、私はどこまでも軽視される存在らしい。
「はい……え?」
扉に向かおうとしていたリリが固まる。
それもそのはずだ。
扉の向こうにいたのは、さっきリリに絡んで来ていたメイドだったのだから。
しかもその表情は不機嫌そうで、どうにもさっきの謝罪に訪ねてきたわけでもなさそうだ。
(うそ……。もしかして仕返しに来たの?)
確かに、あの場はアンネローゼがいたから退いただけだとは思っていたが。
それでもリベンジが早すぎはしないだろうか。
そう思ってしまう。
「これ、第3庭園にいるアンネローゼ様に持って行ってちょうだい」
「は、はい……?」
メイドから何かを押し付けられ、リリは困惑している。
リリの手にあるのは紅茶のカップと茶菓子が乗せられたトレイだ。
話から察するに、それはアンネローゼのために用意されていたものらしい。
「アンネローゼ様が主催している茶会だから、失礼がないようにしてよね」
リリが戸惑いから抜け出すよりも早く、メイドはそう言い捨てて扉を閉めた。
そこに残されたのは、茫然と紅茶を手に固まっているリリだけだ。
「ん、んんぅ……?」
リリは首をかしげていた。
あまりに唐突なパワハラに思考が追いついていないようだ。
「えっと……すみません」
申し訳なさそうにこちらへ振り返るリリ。
「これをアンネローゼ様に届けてきますね」
もう笑うしかない。
そんな様子で部屋の扉を開くリリ。
どう考えても理不尽な仕打ちだが、放っておくわけにもいかないのだろう。
それで面倒を被るのは、あのメイドではなく第3者でしかないアンネローゼなのだから。
自分への嫌がらせに他人を巻き込みたくない。
そう考えるのは、リリの善性ゆえというわけだ。
そこで反抗しないことが分かっているから、嫌がらせを受け続けているともいえるのだが。
「ええ。いってらっしゃい」
「すみません……」
私が見送ると、リリは何度も頭を下げる。
自分の手落ちでないことは明らかなのに。
それでも、私の世話をするという仕事から離れなければならないという状況に負い目を感じているようだ。
なんというか、生まれながらに迫害され続けてきた少女とは思えないほどに善人だ。
ゲームでも底抜けの優しさと評されていたが、その看板に偽りなしというわけだ。
「あとでお菓子をお持ちしますね」
リリはそう言って笑顔を見せる。
「……そういえば」
(なんだかこれって、あのイベントの導入みたいな感じの雰囲気ね)
そのとき、私の中の直感が刺激された。
思い出すのは原作のワンシーンだ。
(そもそも、こんなところにわざわざ仕事を押し付けに来るのも不自然よね)
部屋の位置を考えれば、直接庭園に向かうほうが近いはずだ。
回り道をしてまでリリに仕事を押し付けるのは、すこしおかしいように思える。
「ねえ、リリ。こういうことって、よくあるのかしら?」
私の言葉にリリが立ち止まる。
「多分、ないと思うんですけど……」
少し思案した後、リリはそう言った。
やはり気になる。
「さっきの件もありますし、アンネローゼ様と顔を合わせたくなかったんじゃないでしょうか?」
「そう……かもしれないわね」
私がそう答えると、リリはこの場を立ち去ってゆく。
リリの発言はもっともだ。
私の理性は、彼女の意見に納得していた。
だが、直感がざわついている。
とはいえ原作イベントと結びつけるには根拠が弱すぎる。
たしかに先程のやり取りで原作の一幕が浮かんだのは事実。
しかし類似点があるというだけで、ぱっと思いつくだけでも状況の違いが複数あった。
完全一致ならともかく、これくらいで原作イベントと結びつけるのは難しい。
(だけどこの状況は、アンネローゼ毒殺未遂イベントの始まりに似ているのよね)
だけど、胸にあるしこりが消えない。
――アンネローゼ毒殺未遂事件。
それはその名の通り、アンネローゼが茶会の最中に毒を盛られたことを発端とする事件だ。
原作では、リリが先輩メイドから押し付けられた紅茶に毒が入っており、それが原因でリリに容疑がかかるという流れだったはず。
だが――
(まだもう1人の攻略対象が現れてないから、時系列もおかしい)
事前にリリから聞き出した情報に誤りがないのなら、まだもう1人の攻略対象は現れていない。
つまり、シナリオ開始以前というわけだ。
あのイベントが起こるタイミングではない。
「気のせいだとは思うんだけど……妙な胸騒ぎがするのよね」
正直、今日が暗殺未遂の日という根拠はない。
そんな気がした。それだけだ。
状況どころか、原作知識さえも私の直感を否定している。
そもそも、このイベントは死人が出るようなものではない。
毒を盛られたアンネローゼが倒れて、騒ぎが起こるだけだ。
静観したとしても致命的なことにはならない。
ここは動かないことが正解のはずだ
――もしイベントの順番が変わっていたら?
――原作と毒の量が違ったら?
なのに直感のささやきは消えない。
「っ……」
思わず私は駆けだしていた。
どう考えても論理的ではない衝動に従って。
(こんなの、勘違いだったっていう可能性のほうが高い)
魔王城のマップは把握している。
リリが向かった先も聞いている。
一心に私は走る。
(しかもアンネローゼは、魔王の婚約者の候補になるほどの有力魔族)
このまま茶会に駆け付けたとしよう。
そして直感に従って、紅茶の中に毒があることを示そうとしたとして。
(もしその茶会に乱入したあげく、何もなかったら)
――もし、ただの勘違いで終わってしまったら。
(私は終わりだ)
最初から嫌われきっている私が。
お茶会に乱入して、すべてを台無しにしたのなら。
もう、この城にいる人たちに私という存在を受け入れてもらうことは不可能になるだろう。
今の私がしようとしていることは、あまりにハイリスクな行為だ。
(だけど……)
もう考える時間はない。
私は裸足のまま庭園に飛び出していて。
その視線の先には、もうアンネローゼの前に置かれた紅茶のカップが見えてしまっているから。
「エレナちゃん!?」
紅茶を渡し終え、城に戻ろうとしていたリリが私の存在に気付く。
だけど私は目もくれない。
リリの隣を走り去り、アンネローゼへと駆け寄った。
――すでにアンネローゼはカップを手にしている。
優雅な仕草で紅茶の香りを楽しみ、カップに口をつけようとしている。
もう言葉で止める時間さえない。
「失礼しますっ」
「きゃ!?」
私は駆ける勢いのままアンネローゼからカップをひったくった。
あまりに唐突な出来事だったからだろう。
普段のアンネローゼが決して出さないような可愛らしい悲鳴が聞こえた。
これが画面の向こう側の出来事だったなら、キャラの意外な一面として楽しめたのだろうけれど。
あいにくと今の私にそんな余裕はない。
「どういうつもりですのっ!?」
アンネローゼが動揺混じりに糾弾する。
彼女だけではない、茶会の出席者であろう魔族の令嬢たちから非難の視線が集まっている。
……胃を丸ごと吐き出しそうなくらいのプレッシャーが全身を襲ってきた。
直感が間違っていればそこで終わりのギャンブルゲーム。
それを楽しむような豪胆さは私にない。
(毒であることを願うなんて馬鹿みたいな話だけど)
この紅茶に毒が入っていなければ、私は終わりだ。
毒殺を防ぎに来たのに、毒入りであることを願うなんて皮肉が利いている。
笑い話にもならない。
「――すみません」
祈るような気持ちで、私はカップをひっくりかえした。