(聖魔のオラトリオには続編がある)
聖魔のオラトリオは人気ゲームだった。
ゆえに舞台を変えた続編が発売されていた。
聖王国を舞台にして、魔王討伐のために戦った聖魔のオラトリオ。
対してその続編――聖魔のオラトリオReverseは魔族領を舞台にしたシナリオなのだ。
(その主人公の名前が、リリ=コーラス)
そして主人公もノア=アリアから、目の前にいるリリ=コーラスへと変更されている。
(だけどReverseは本編と関係のないIFルートだって考察されていたはず)
理由は2つ。
本編主人公たち――聖王国との戦争が起きていないこと。
そして、前作で倒したはずの魔王リュートが攻略対象であること。
それらの理由からReverseの世界観は、本編よりも過去で分岐したもしもの世界だとファンの間では考えられていた。
だが、違った。
(まさか、Reverseがグランドルートの後の世界だったなんて)
今は、魔王討伐により聖王国との戦争は終わっている。
今は、リュートが生きている。
たしかにReverseのシナリオが始まる条件を満たしている。
「ああ、そうだ。言っておくことがあったな」
私が内心で困惑していると、リュートがこちらに目を向けた。
「お前はここでもエレナを名乗れ」
それは、私の今後の振る舞い方についてだった。
本当の名を隠し、エレナとして生活しろ。
彼はそう言った。
「この城に住む者は、皆お前の容姿を知っている。魂が違うと語ろうとも、余計な反発を生むだけだろう」
「……ですよね」
魂を扱う技術なんて、聖魔のオラトリオでは触れられた記憶がない。
つまり、リュートがしている魂についての研究は異端中の異端なのだ。
様々な物語が出回っていた日本ならともかく、この世界で憑依や転生だなんて口にしたらかえって信用を失うだけだ。
「安心しろ。オレの客と宣言する以上、お前に手出ししてくる奴はいないだろう」
リュートがにやりと笑う。
恐ろしく、そしてどこか色香のある微笑みだった。
「いたとしたら……そういうことだな」
その言葉にわずかながら口元がひきつってしまった。
リュートは聡明で、王としての矜持を持つ人物として描かれていた。
人が持つゆがみや悪意を許す寛容な人物ではある。
しかし、王として彼が口にした言葉を蔑ろにした以上、それ相応の罰を与えることだろう。
寛容さと甘さをきちんと区別するタイプのキャラなのだ。
「リリ」
「はいっ」
リュートに声をかけられ、リリは敬礼のポーズをとった。
しかしふわふわした容姿のせいか、きちんとした姿勢に反して微妙に気の抜けた印象がある。
このあたりは凛とした雰囲気だった前作主人公とはかなり違うといえるだろう。
「これからは彼女の身の回りの世話をしてくれ」
「りょ、了解いたしましたっ!」
リュートに命じられたリリはこちらへと向き直る。
「私はリリ=コーラスですっ。あなたは――」
「ああ……」
一瞬だけ口ごもる。
どうやら、リリは私の――というよりエレナのことを知らないらしい。
たしかに彼女は世間知らずな面も多かったため、いくら悪名高い人物でもよく知らないことはあるのだろう。
「…………エレナ=イヴリスです」
リュートの言葉に従い、私は偽りの名前を口にした。
いや。私の名前や正体を証明してくれるものは、この世界にはもう存在しない。
私の記憶だけなのだ。
だから私がいくらそう信じていても、私はこの世界では『エレナ=イヴリス』でしかいられないのだろう。
「よろしくお願いしますっ。エレナちゃんっ」
屈託のないリリの笑顔に出迎えられ、私の新たな生活が始まった。
☆
あれから私へとあてがわれた部屋に訪れ、最初に行ったのは入浴だった。
獄中にいたせいで服は破れ、歩き回ったせいで体はべとべと。
日本人の端くれとして、なにを差し置いてもこの状況をどうにかしたかったのだ。
そういう意味では、この聖魔のオラトリオがなんちゃって西洋風――文化レベルが比較的現代に近い世界観で良かった。
石鹸も当然のように存在するし、かつての自宅よりも豪華な浴室があるのだから。
(見た感じ、Reverseのシナリオは始まっていない感じだったよね)
わしゃわしゃと私の黒髪が泡立つ。
左うちわとでも表現すればいいのだろうか。
私はただ座っているだけで、背後に立ったリリが私の髪を洗ってくれている。
おかげで思考に没頭できていた。
(リリ=コーラスにはシナリオ終盤で発覚する秘密がある)
聖魔のオラトリオの主人公ノア=アリアは冒頭に聖女として覚醒し、それからは非凡な存在として活躍していく。
一方、続編の主人公であるリリ=コーラスは自身の秘密に終盤まで気が付くことなく、最初は明るいだけの平凡な少女という印象が強い。
――彼女が自分の正体を理解したとき、彼女の容姿には大きな変化が訪れる。
(例のイベントが起こっている様子もない)
逆説的に、人間のような姿のままリリがここにいる以上、シナリオはそれほど進んでいないはず。
リュートを攻略するルートをクリアした様子もない。
そしてもう1つのルートをクリアしたのなら、彼女はこの世にいないはずだ。
(そういえば、もう1人の攻略対象ってもうここにいるのかな?)
「湯加減いかがですか?」
「ええ。大丈夫です」
シャワーで髪についていた泡が流れ落ちてゆく。
「あのリリ……さん?」
「リリ、でいいですよ?」
気になっていたことを尋ねるため声を上げる。
すると明るい声が返ってきた。
本当に、いつでも楽しそうに話す少女だ。
話しやすくて助かるけれど。
「り、リリ……。1つ聞きたいことがあるんだけど」
少し緊張しながら質問を口にした。
「ソーマ、っていう人を知らない?」
ソーマ。
それがもう1人の攻略対象の名前だ。
彼は、シナリオの途中で魔族領に現れる。
彼がいるか否か、それだけでシナリオの進行度が分かるはずだ。
「えっと、知らない……と思います」
(もう1人の攻略対象はまだ登場してないわけね)
申し訳なさそうなリリの答えに、思わず安堵した。
彼のルートは1つ間違えばかなりの被害が出てしまう。
まだ彼が現れていないのなら、そのあたりの心配は後に回していいだろう。
「あっ! でも私って抜けてるってよく言われるし、もしかしたら忘れてるだけかもしれませんっ」
「覚えてないなら大丈夫よ。変なことを聞いてごめんなさい」
ソーマが現れて、リリと出会わないなんてことはありえない。
彼女が覚えていない以上、まだ彼はいないのだろう。
Reverseのシナリオについて早急に解決するべき問題はなさそうだ。
まずは、自分の立ち位置を考えるのが先か。
エレナとして生きていける場所を確保する。
それはきっと、簡単なことではないだろうから。
☆
「……遅いわね」
思わず私はぼやいた。
さっきからお腹がひっきりなしに鳴っている。
私は、食事を持ってくると部屋を出たきり戻ってこないリリに思いをはせる。
世話を焼いてもらう身分で文句を言う気はないけれど、昨日からずっとなにも食べていないので空腹感がかなり耐えがたくなってきた。
「リリってけっこうドジな印象だったし、もしかして迷ってるんじゃ……」
(実際、イベントの導入でそんなシーンがあったりするし……)
道に迷っていたところを攻略対象に出くわし――なんてこともあったはず。
まさか、私が空腹で死にかけている一方で攻略対象と仲を深めていたり……。
「魔王城ならマップは完全に覚えてるし、入れ違いになってもすぐに戻ってくれば大丈夫だよね?」
魔王城の内部もゲームとほとんど変わらないはず。
少し様子を見るくらいなら、入れ違いになってしまうリスクも低いだろう。
――そしてちょっとだけ、城を散策したいという好奇心があった。
私は部屋を出て、廊下を歩いてゆく。
厨房の位置はおおよそ把握している。
そこからこの部屋の最短ルートを進めば、リリと会えるはずだ。
「あれは……」
結論として、その予測は正しかった。
リリは廊下を曲がったすぐそこまで来ていたのだ。
正確には彼女だけではなかったけれど。
「あの……通していただけませんか?」
リリは食事を乗せたトレイを手にしたまま後ずさる。
彼女の前には3人の魔族の女性が立ちふさがっている。
服装から察するに、彼女たちもリリと同じメイドなのだろう。
「あの黒魔女の世話だなんて、できそこないにはお似合いの仕事じゃない?」
くすくすとメイドの1人が笑う。
黒魔女。
こちらでも私の悪名がとどろいているという予想は的中したらしい。
それにしても、できそこないとはかなりの言い草だ。
そういえば、初期のリリはそんな風に罵倒されることが多かった。
「さすが魔王様ね。厄介払いもお上手だわ」
メイドが言えば、追従するように残りの2人も嘲笑する。
正直なところ、その言い方では主であるリュートの性格も微妙に貶めているような気がするのだが、彼女たちの中ではセーフなのだろうか。
(あんなに明るい性格だけど、リリってけっこう可哀そうな境遇なのよね)
リリが持つ過去の傷。
それを端的にいえば、他者との違いから生まれる差別だ。
彼女は魔族特有の身体的特徴を持たず、人間と瓜二つの容姿をしている。
違うというだけで排除の対象となりえるのが社会というもの。
しかも、人間は魔族よりも全体的な能力で劣っている。
そんな人間とよく似た異物であり、自身より下等な存在。
そう見下されたリリは、他の魔族から迫害を受けていたのだ。
そこを魔王リュートに拾われて――というのが、彼女がこの城で働くことになった経緯だったはず。
「そうだ。こういうのってどうかしら」
メイドがなにかを思いついたらしく、悪辣な笑みを浮かべた。
「できそこないのメイドがせっかくの食事を床に落としちゃうのよ。そのせいで大事な大事なお客様は飢えて、メイドは罰として折檻されちゃうの」
メイドは、リリが手にしているトレイへと指を向ける。
エレナとリリ。
めざわりな2人へと同時に嫌がらせができる。
そんなところか。
わりと雑なやり口だが、私たちを擁護しようという者がいないのだ。どうにでもなるというのが彼女たちの考えだろう。
「ええ、そうしましょう」
メイドが手を振り上げる。
どうやら、リリにビンタを食らわせるつもりらしい。
「っ」
痛みに備えて目を閉じるリリ。
気が付けば私は、彼女の前に飛び出していた。
我慢ならないのだ。
生い立ちだとか。
彼女が、そんな当人にはどうしようもない事情で虐げられている事実が。
そう思い立ったはいいものの。
部活の経験もなければ、軽い運動さえ就職してからご無沙汰。
そんな私に颯爽と彼女を守れるはずもなく。
できることなら彼女の代わりにビンタを受けることくらいだった。
「エレナちゃん……?」
廊下に音が響く。
背後から茫然としたリリの声が聞こえてきた。
だが、一番戸惑っていたのはビンタをした本人だ。
そうよね。マズイと思うでしょうね。
いくら見下していても、私は客人なのだ。それも他ならぬ魔王の。
リリならどうにでもなったかもしれないが、私への暴力は簡単に言い訳できない。
一瞬にして私たちの優位性がくつがえるが――
(って私はなにしてるのよ……!)
実のところ、私もかなり困惑していた。
たしかに状況は私が優位だろう。
私が申し出たのなら、あのメイドは罰を受ける。
(この状況で私がでしゃばっても、火に油を注ぐだけじゃない……!)
だがその後はどうか。
いきなり揉め事を起こしたとなれば、私の印象はさらに悪くなる。
この城の一員として認められる日は遠のくだろう。
(どう状況を終わらせるべきかしら)
穏便に事態を収束にはどう立ち回るべきか。
そう逡巡していると――
「あなたたち! そこでなにをしていますのっ!?」
そんな声が聞こえてきた。
凛としたよく通る声。
彼女の声を私は知っていた。
「あれは……」
青ざめて後ずさるメイドたち。
私が振り返れば、そこには赤いドレスをまとう女性が立っていた。
ドリルのようにロールしている金髪。
ブロンドヘアをかき分けて伸びる角は螺旋状に渦巻いていた。
その姿は絵に描いたような貴族令嬢だった。
「アンネローゼ様……!」
メイドの1人が茫然とつぶやく。
彼女もここのメイドであるのなら、目の前に現れた女性がどんな人物なのか分かっているのだろう。
金髪ロールの女性の名はアンネローゼ=ハート。
魔王リュートの婚約者候補筆頭であり――聖魔のオラトリオReverseにおいてリリのライバルとなるキャラクターだ。