その名前に反応したのは三人だった。
一人はコトハである。彼女は目を見開き、手を口元に当てた。二人目はアカネ。彼女は眉が下がっており、心なしか表情が暗い。
そして三人目はイーサン。彼は「ズオウ」と言う名前を聞き、目を思いっきり開いた後眉間に皺を寄せた。
「ズオウ、だと……?」
イーサンの周囲にある空気の温度が下がり、周囲に雪が吹き荒れているように見えるのは気のせいではない。現に、名前を告げた使者は、歯をガチガチと震えさせてイーサンを見ていた。
「どう……さ、されたので……しょうか……?」
何故イーサンの怒りに触れたのかが分からない使者は、しどろもどろになりながらも彼へと尋ねる。その事に気づいたコトハはイーサンの横へ行き、袖を軽く引っ張った。
「イーサン、使者の方が震えておられますよ。落ち着いて下さい」
「ん、ああ、済まなかった」
彼女の言葉で正気を取り戻したのか、イーサンは怒りを一瞬で引っ込めた。そしてコトハへと振り向く。
「コトハの故郷に、そんな名前の男が居た事を思い出してな。君に対しての怒りではないのだが、感情の制御ができず向かってしまったようだ。申し訳ない」
「コトハ様の故郷のお方ですか……?!」
使者はイーサンの言葉に驚き、無意識にコトハへと顔を向ける。彼女は頷いた。
「黒髪黒目で人族……そしてズオウ、と言う名前ですから、可能性は高いかと思います」
「では、それを早急に宰相様へと……! 報告は以上です。一旦私は――」
使者は「戻らせていただきます」と言おうとしたのだろう。だが、その前に入口の扉が乱暴に開く。そこに居たのは、
「パウル様! どうなされたのでしょうか?!」
「クリス! 君もここに居たのか!」
パウルの息は荒く、顔は真っ赤。彼の部下であるクリスも驚愕している事から、そんな彼の様子は滅多にない事なのだろう。イーサンも唖然としながら、パウルに尋ねた。
「どうしました? パウル様」
口を動かそうとするパウルだったが、中々言葉が出ないようだ。見かねたマリが給湯室から水を、ヘイデリクが彼の背を優しく撫でる。マリからコップを受け取り、パウルは一気に水を飲み干す。まだ息は乱れているが、大分整ったようだ。
彼はイーサンを見て告げた。
「ケイロ遺跡の守護人から、続報が届きました! その内容によると……」
そこで一旦言葉を止めたパウルは、イーサンからコトハへと視線を移す。その視線で、先ほど感じていた胸騒ぎが正しかったのだ、とコトハは思う。そんな胸中を知ってか知らでか、彼は次の言葉を紡いだ。
「ズオウという男がコトハ様を返せ! と叫んでいるそうです……!」
イーサンの周囲にある空気が一瞬で大荒れ模様となった。周囲は初めて見るイーサンの怒り様に身震いする。彼は基本冷静沈着で、感情をあまり表に出さない男である。そんな男を怒らせるズオウとは一体……とコトハやアカネ以外の者は思ったに違いない。コトハの過去を報告しているパウルでさえも、イーサンの憤怒に目を剥いた。
「コトハに手を上げた男が、『返せ』と言っているだと……?」
静寂が続く中、無意識に呟いたのはイーサンだ。元婚約者であり、コトハを罪人として牢へと追いやり、手を上げた男。彼女を「物」として扱っていた男。そんな男が
イーサンは隣にいたコトハへ顔を向けた。
「……今から遺跡へと向かい、叩きのめして来てもいいだろうか?」
その目は本気だ。彼女の許可を得る前に、今すぐにでも動こうとしていたイーサン。コトハは慌てて彼の腕に抱きついた。
「イーサン、待って下さい! 彼はもしかしたら刀……えっと武器を持っているかもしれません。私は貴方が傷つくのは見たくないのです……!」
その場面を頭に浮かべてしまったコトハの目には涙が溜まる。そんな彼女を見たイーサンは彼女の頭に手をポンポンと乗せた。
「済まない、短略的だった」
瞳の奥に憤怒の炎は宿っているが……幾分か落ち着いたらしく、泣きそうな彼女に優しく微笑みかける。最初は身体が強張っていたコトハ。だが、よく人が怒っている姿を見ると、自分が冷静になるなんて話がある様にイーサンの怒髪天をつくような怒りを見て、コトハは段々と落ち着いてきた。
そんな二人を見たパウルは二人に話しかける。
「イーサン殿が落ち着いたので、話を戻しますが……この件でファーディナント様がお呼びです。コトハ様、詳しく話をお聞かせ願えますか?」
コトハが頷けば、パウルもほっとしたのか胸を撫で下ろす。そしてもう一人――。
「あ、あの! ……私も行ってもいいですか?」
手を上げたのはアカネであった。だが、その手は小刻みに震えている。その事に気づいたコトハはアカネに尋ねた。
「アカネ、無理しなくても良いのよ?」
「いえ、コトハ様にも聞いて欲しい事があるのです。私も連れて行って下さい!」
「アカネ嬢、本当によろしいのでしょうか?」
「……はい」
パウルの目を見て返事をしたアカネ。彼も彼女の決意を理解したのだろう。「分かりました。ついて来て下さい」と言って踵を返す。そしてその時にふと目が合ったらしいアカネに話しかけた。
「アカネ嬢、念の為お聞きしますが、貴女の番であるジェフにも声を掛けますか?」
アカネは少し首を捻って考えていたが、最終的に「……お願いします」と頭を下げる。どうやら、ジェフは出会ってから短期間ではあるが、彼女から信用を勝ち取っているようだ。少し頬が赤い彼女を見て、コトハは静かに胸を撫で下ろした。
「では、クリス。第一警備隊のジェフ・モファットを呼んできて下さい。そうですね……第一警備隊は訓練場にいるでしょうから」
「承知いたしました」
入口付近にいたクリスは頭を下げると、足早に扉から出ていく。パウルもその後に続こうと、扉の前に立つ。そして出る前に一度、こちらへと振り向いた。
「イーサン様、コトハ様。執務室に集合願います」
そう告げて立ち去っていくパウル。扉の閉まる音が耳に入ると、イーサンはコトハへと顔を向けた。
「少々思い出したくない過去を思い出させてしまうのは心苦しいが……済まない。ズオウという男が、この城へと来る前に色々と教えてくれ。コトハ、君を守る事ができる様手を尽くすと誓おう」
「ありがとうございます」
コトハはイーサンと目を合わせて微笑み合う。そしてふと視線を感じたので周囲を見回した。
レノとヘイデリクはイーサンの言葉にうんうん、と頷いている。マリは片目を閉じて、力こぶを作っていた。アカネは緊張している様だが、その瞳の奥には決意が見え隠れしている。
コトハも全員と視線を合わせてから、満面の笑みで応えたのだった。
扉から一番遠い誕生日席には既にファーディナントが座っていた。横にある長椅子にはコトハとイーサンが座り、反対側にはアカネ、ジェフ、そしてパウルが座った。
全員が座ると同時に、パウルが話し出す。
「さて、ここに集まった皆様には、軽く現在の状況をお話しさせていただきます。現在、ケイロ遺跡にコトハ様とアカネ嬢と同郷だと思われる男――ズオウと名乗る者が現れました。彼の要求は『コトハ様を返せ』との事です」
「ちなみにここからは無礼講でいいぞ。そもそも、イーサンからの又聞きではあるが……コトハ嬢の話からすると、二人を追放したのはあちらの方なのだろう? 何故今になってコトハ嬢を取り返しに来たのだ? それがいまいち分からん。コトハ嬢は何か分かるか?」
パウルの後に、ファーディナントが首を傾げて話す。コトハはひとつ思い当たる節があった。
「もしかすると……穢れによる疫病が発生しているのかもしれません」