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第56話 イーサンの憤怒

 その名前に反応したのは三人だった。

 一人はコトハである。彼女は目を見開き、手を口元に当てた。二人目はアカネ。彼女は眉が下がっており、心なしか表情が暗い。

 そして三人目はイーサン。彼は「ズオウ」と言う名前を聞き、目を思いっきり開いた後眉間に皺を寄せた。


「ズオウ、だと……?」


 イーサンの周囲にある空気の温度が下がり、周囲に雪が吹き荒れているように見えるのは気のせいではない。現に、名前を告げた使者は、歯をガチガチと震えさせてイーサンを見ていた。


「どう……さ、されたので……しょうか……?」


 何故イーサンの怒りに触れたのかが分からない使者は、しどろもどろになりながらも彼へと尋ねる。その事に気づいたコトハはイーサンの横へ行き、袖を軽く引っ張った。


「イーサン、使者の方が震えておられますよ。落ち着いて下さい」

「ん、ああ、済まなかった」


 彼女の言葉で正気を取り戻したのか、イーサンは怒りを一瞬で引っ込めた。そしてコトハへと振り向く。


「コトハの故郷に、そんな名前の男が居た事を思い出してな。君に対しての怒りではないのだが、感情の制御ができず向かってしまったようだ。申し訳ない」

「コトハ様の故郷のお方ですか……?!」


 使者はイーサンの言葉に驚き、無意識にコトハへと顔を向ける。彼女は頷いた。


「黒髪黒目で人族……そしてズオウ、と言う名前ですから、可能性は高いかと思います」

「では、それを早急に宰相様へと……! 報告は以上です。一旦私は――」


 使者は「戻らせていただきます」と言おうとしたのだろう。だが、その前に入口の扉が乱暴に開く。そこに居たのは、パウル宰相本人であった。


「パウル様! どうなされたのでしょうか?!」

「クリス! 君もここに居たのか!」


 パウルの息は荒く、顔は真っ赤。彼の部下であるクリスも驚愕している事から、そんな彼の様子は滅多にない事なのだろう。イーサンも唖然としながら、パウルに尋ねた。


「どうしました? パウル様」


 口を動かそうとするパウルだったが、中々言葉が出ないようだ。見かねたマリが給湯室から水を、ヘイデリクが彼の背を優しく撫でる。マリからコップを受け取り、パウルは一気に水を飲み干す。まだ息は乱れているが、大分整ったようだ。

 彼はイーサンを見て告げた。


「ケイロ遺跡の守護人から、続報が届きました! その内容によると……」


 そこで一旦言葉を止めたパウルは、イーサンからコトハへと視線を移す。その視線で、先ほど感じていた胸騒ぎが正しかったのだ、とコトハは思う。そんな胸中を知ってか知らでか、彼は次の言葉を紡いだ。


「ズオウという男がコトハ様を返せ! と叫んでいるそうです……!」


 イーサンの周囲にある空気が一瞬で大荒れ模様となった。周囲は初めて見るイーサンの怒り様に身震いする。彼は基本冷静沈着で、感情をあまり表に出さない男である。そんな男を怒らせるズオウとは一体……とコトハやアカネ以外の者は思ったに違いない。コトハの過去を報告しているパウルでさえも、イーサンの憤怒に目を剥いた。


「コトハに手を上げた男が、『返せ』と言っているだと……?」


 静寂が続く中、無意識に呟いたのはイーサンだ。元婚約者であり、コトハを罪人として牢へと追いやり、手を上げた男。彼女を「物」として扱っていた男。そんな男がコトハを傷つけようとしているのだ。黙っていられるわけがない。

 イーサンは隣にいたコトハへ顔を向けた。


「……今から遺跡へと向かい、叩きのめして来てもいいだろうか?」


 その目は本気だ。彼女の許可を得る前に、今すぐにでも動こうとしていたイーサン。コトハは慌てて彼の腕に抱きついた。


「イーサン、待って下さい! 彼はもしかしたら刀……えっと武器を持っているかもしれません。私は貴方が傷つくのは見たくないのです……!」


 その場面を頭に浮かべてしまったコトハの目には涙が溜まる。そんな彼女を見たイーサンは彼女の頭に手をポンポンと乗せた。


「済まない、短略的だった」


 瞳の奥に憤怒の炎は宿っているが……幾分か落ち着いたらしく、泣きそうな彼女に優しく微笑みかける。最初は身体が強張っていたコトハ。だが、よく人が怒っている姿を見ると、自分が冷静になるなんて話がある様にイーサンの怒髪天をつくような怒りを見て、コトハは段々と落ち着いてきた。

 そんな二人を見たパウルは二人に話しかける。


「イーサン殿が落ち着いたので、話を戻しますが……この件でファーディナント様がお呼びです。コトハ様、詳しく話をお聞かせ願えますか?」


 コトハが頷けば、パウルもほっとしたのか胸を撫で下ろす。そしてもう一人――。


「あ、あの! ……私も行ってもいいですか?」


 手を上げたのはアカネであった。だが、その手は小刻みに震えている。その事に気づいたコトハはアカネに尋ねた。


「アカネ、無理しなくても良いのよ?」

「いえ、コトハ様にも聞いて欲しい事があるのです。私も連れて行って下さい!」

「アカネ嬢、本当によろしいのでしょうか?」

「……はい」


 パウルの目を見て返事をしたアカネ。彼も彼女の決意を理解したのだろう。「分かりました。ついて来て下さい」と言って踵を返す。そしてその時にふと目が合ったらしいアカネに話しかけた。


「アカネ嬢、念の為お聞きしますが、貴女の番であるジェフにも声を掛けますか?」


 アカネは少し首を捻って考えていたが、最終的に「……お願いします」と頭を下げる。どうやら、ジェフは出会ってから短期間ではあるが、彼女から信用を勝ち取っているようだ。少し頬が赤い彼女を見て、コトハは静かに胸を撫で下ろした。


「では、クリス。第一警備隊のジェフ・モファットを呼んできて下さい。そうですね……第一警備隊は訓練場にいるでしょうから」

「承知いたしました」


 入口付近にいたクリスは頭を下げると、足早に扉から出ていく。パウルもその後に続こうと、扉の前に立つ。そして出る前に一度、こちらへと振り向いた。


「イーサン様、コトハ様。執務室に集合願います」


 そう告げて立ち去っていくパウル。扉の閉まる音が耳に入ると、イーサンはコトハへと顔を向けた。


「少々思い出したくない過去を思い出させてしまうのは心苦しいが……済まない。ズオウという男が、この城へと来る前に色々と教えてくれ。コトハ、君を守る事ができる様手を尽くすと誓おう」

「ありがとうございます」


 コトハはイーサンと目を合わせて微笑み合う。そしてふと視線を感じたので周囲を見回した。

 レノとヘイデリクはイーサンの言葉にうんうん、と頷いている。マリは片目を閉じて、力こぶを作っていた。アカネは緊張している様だが、その瞳の奥には決意が見え隠れしている。

 コトハも全員と視線を合わせてから、満面の笑みで応えたのだった。


 幾許いくばくか経った頃。ファーディナントの執務室へと全員が集合する。執務室へ入室したコトハ、イーサン、アカネの三人はパウルの指示により部屋の右側に設置されていたローテーブルの周囲にあるソファーへと案内される。

 扉から一番遠い誕生日席には既にファーディナントが座っていた。横にある長椅子にはコトハとイーサンが座り、反対側にはアカネ、ジェフ、そしてパウルが座った。

 全員が座ると同時に、パウルが話し出す。


「さて、ここに集まった皆様には、軽く現在の状況をお話しさせていただきます。現在、ケイロ遺跡にコトハ様とアカネ嬢と同郷だと思われる男――ズオウと名乗る者が現れました。彼の要求は『コトハ様を返せ』との事です」

「ちなみにここからは無礼講でいいぞ。そもそも、イーサンからの又聞きではあるが……コトハ嬢の話からすると、二人を追放したのはあちらの方なのだろう? 何故今になってコトハ嬢を取り返しに来たのだ? それがいまいち分からん。コトハ嬢は何か分かるか?」


 パウルの後に、ファーディナントが首を傾げて話す。コトハはひとつ思い当たる節があった。


「もしかすると……穢れによる疫病が発生しているのかもしれません」

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