見つめあってしばらくして、イーサンが話し出す。
「俺に話してくれてありがとう」
「いえ、お礼を伝えるのはこちらの方です。すみません、イーサン様。こんな話を聞かせてしまい……」
とコトハが呟くと、イーサンは横に首を振った。
「いや、これを言うと不謹慎かもしれないが、コトハ嬢が俺を頼ってくれて嬉しいんだ」
「嬉しい?」
彼の思わぬ言葉にコトハは首を傾げる。
「そうだ。コトハ嬢の過去を共有できた事が、だ。俺には過去を変える力はないが……今ここで君に寄り添う事はできる。過去で何が起きて、その時何を感じたか……君の気持ちの整理のためには必要なのだろう? だから俺に話してくれたのだろう?」
彼女はその言葉に同意する。
「その立場に俺を選んでくれた事が、何より嬉しいんだ」
「イーサン……様……」
嬉しかった。
話を聞いてくれて寄り添ってくれる人がいる、その事に。
頭を優しく撫でられた彼女は、感情の昂ぶりが抑えられず、堰を切ったように涙が溢れ出す。そして無意識に近くにあったイーサンの胸へと身体を預ける。コトハは言葉を紡ぐ事ができないほど泣いた。
イーサンはいきなりの事で狼狽えながらも、子どもをあやすかのように彼女の背中を優しくさすっていた。
しばらくの間、胸を借りながら大泣きしたコトハ。次第に心も落ち着いていき、涙が止まる頃には心が軽くなっていた。きっと今まで押し込めていた感情を曝け出したからだろう。
すると急に冷静になったからか、ふと額と手と背中に温もりを感じた。どうやら自分はイーサンに抱きしめられているらしいと気づいて、「ふぇっ」と声を上げながら肩が跳ねた。
顔を上げると驚いたイーサンが声を上げる。
「コトハ、どうした?」
「あ、いや、えっと……すみません! 私、イーサン様の胸に顔を……!」
真っ赤になって謝罪するコトハに、イーサンは何とも無いように告げた。
「いや、それは問題ない……むしろこちらこそ勝手に背中へと触れてしまい、すまなかった。本当は触れても良いだろうか、と聞くべきだったのだろうが……あの時は聞くのが
どうやら、背中をさすってくれた事を言っているらしい。そのお陰で落ち着いたのも事実なので、コトハは思い切り首を横に振った。
「私も泣いていたので大丈夫です! むしろ、ありがとうございました。お陰様で落ち着く事ができましたので……。それで、あの……」
「ん? どうした?」
コトハは口をパクパクと何度か動かしてから閉じる。彼に呼び捨てで呼ばれた事に気づいたが、イーサンは彼女を呼び捨てで呼んだ事に気づいていないらしい。自分から言うのも少々気恥ずかしいが、思い切って告げた。
「あの、先程私を呼び捨てで呼んでくださったのですが――」
「呼び捨て? ……え、あ、あ……?! すまない! あれは思わず口に出てしまったようだ! 心の中では君のことを呼び捨てで……いや、俺は何を言っているんだ?!」
イーサンは狼狽えながらも言葉を紡ぐのだが……あまりの衝撃に焦っているのか、思っている事がそのまま口に出ているらしい。すぐに口を閉じた後は頭を抱えていた。
「流石に心の中で呼び捨てだと言われたら、引かれるだろう……いや、何でそもそも呼び捨てで名前を呼んでしまったのか……」
そんな事をぶつぶつ小声で呟いている。イーサンは心の声だと思っているので、全て口から出ている事に気づいていない。コトハは彼の言葉を聞いて、少し頬を染めた後話しかけた。
「あの、イーサン様……」
「ああ、取り乱して済まなかった。どうした?」
未だに動揺はしているらしく、目が泳いでいるイーサン。そんな彼を可愛く思いながら、コトハは思っている事を口に出す。
「あの、イーサン様。これから私のこと、良ければコトハとお呼びください」
その言葉にイーサンは固まった。どうやら限界を越えつつあるらしい。
「……? ん、今幻聴が聞こえたような気がしたが……」
「幻聴ではありません、イーサン様。私の事は呼び捨てで呼んでくださいませんか?」
イーサンは目をしばたたかせた。
「……良いのか? では、コトハと呼ばせてもらおう。なら俺のことも呼び捨てで呼んで欲しい」
満面の笑みでイーサンに呼び捨てで呼ばれる時の破壊力と言ったら――コトハは胸が波打つ。段々と頬も熱くなっているので、きっと赤くなっているだろう。
その上、呼び捨てで呼ばれる事を期待しているのか、イーサンは上機嫌だ。コトハがそう言えば、彼からも言われるだろうと予想はしていたが……実際に言おうとすると緊張で震えた。ニコニコと微笑んでいるイーサンの顔を覗き込む。
「分かりました……イーサン……」
頬を染めて上目遣い、恐る恐るこちらを窺いながら話すコトハの愛らしさに、イーサンは思わず目を手で隠す。コトハは彼の行動に首を傾げながらも、残っていたデローを一緒に食べようと立ち上がった。そしてふと窓を見ると、先程の雲は晴れたのか……太陽が顔を覗かせていた。
コトハと別れた後、イーサンはヘイデリクとマリにお礼を告げてから、レノの元へ向かう。イーサンは、過去の話をかいつまんで伝えて良いだろうか、とコトハに相談しており、
過去の事を話してくれたと語るイーサンの表情はだらしなく、終始レノはそんな彼の様子を呆れて見ていた。その上、どうやらやっと呼び捨てで呼び合う仲になったらしい。彼女は口角を上げて上機嫌のイーサンの前でひとつため息をついた。
「やっと恋仲になったのかい」
「……いや、恋人にはなっていないが」
「いやいやいや、呼び捨てで呼ぶ事になったのだろう?」
「ああ。呼び捨てで呼んでくださいと言われたからな」
二人ともズレているような気がしたレノだったが、まあ、一歩進展したと考えれば良いかと納得する事にした。
「じゃあ、あたしもそろそろお嬢ちゃんが卒業できるかねぇ……嫉妬するんじゃないよ? 一応あたしの部下みたいなものだろう? いつまでもお嬢ちゃんと呼ぶわけにもいかないだろうよ。二人が呼び捨てで呼べるまであたしは待ったのだから、そこは分かって欲しいねぇ」
「仕方ないか……」
歓迎していない様子ではあったが、レノの話も一理あると考えたイーサンは渋々頷いた。
「まあ、それは置いておいて……コトハの話はどう思ったさね」
「そうだな、周囲が糞だと思ったな。もし彼女の故郷に行けるのなら、コトハを苦しめた奴ら全員をぶん殴りたいとは思う」
「おやまあ、相当怒っているじゃないか」
イーサンをここまで怒らせるとは、とレノも驚いた。
「まあ、実際のところは分からないけどねぇ……あの子が嘘を付くような子ではないのは知っているさね。善良だからこそ、悪意に疎い。きっと誰かに嵌められたんだろうさ……そうじゃなければ転移陣は動かないはずだからねぇ」
「俺もそうじゃないかと思っている」
そんなコトハの話を昼間にしていたからだろうか――。
夜眠りに着いたレノが目を開けると、真っ白い部屋の真ん中にいた。目の前には椅子とテーブルが置かれており、奥側に女神アステリアが座っている。慌てて彼女は膝立ちになり頭を下げる。
「お久しぶりでございます、女神アステリア様」
「ふふふ、そんな畏まらなくて良いわ、私の可愛い子、レノ。さあ、ここに座って」
レノはここに一度来た事があった。それは神子の力を授かった時に。今の今まで忘れていたが、白い空間を見て思い出したのだ。その事に気づいているらしい女神アステリアはにっこりと微笑んだ。
「あの世界を長く支えてくれてありがとう、レノ」
「アステリア様の力をお借りしている者として当然のことです」
レノからは光が邪魔して女神アステリアの表情は見えないが、優しげな笑い声が聞こえる。「期待してますよ」と彼女が告げた後、「そう言えば」と話が変わる。
「今日ここに呼んだのは、ひとつお願いがあってね。コトハの事なのだけど」
「あのお嬢ちゃ……コトハですか?」
「ええ、これからあの子に色々と試練が訪れるわ。貴女やイーサンの協力が必要になると思うの。彼女を助けてあげて欲しいのよ。これが私のお願い」
「分かりました」
「任せたわ。レノ、長い間任せきりにしてごめんなさいね」
「大丈夫」と答えようとしたレノだったが、急に眠気が襲ってきたため瞼や口が重い。その様子を見ていた女神アステリアは、小鳥が囀るような美しい声で告げた。
「そろそろ時間ね。レノ、あの子をよろしくね」
「はい」と答えられたのかは分からない。そのまま彼女の意識は沈んでいった。