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第49話 思い出のデロー

「あ、イーサン様……どうされのですか?」


 イーサンがコトハの部屋に来たのは、初めてだった。いきなりのことに狼狽えていると、彼が頭を下げる。


「済まない。君の部屋に直接向かうのはどうかと思ったのだが……これを渡したくて」


 そう言って差し出された箱は、両手を広げたくらいの大きさがあり、こちらも赤い箱にピンク色のリボンで飾り付けられている。ふと懐かしい香りが鼻をくすぐった。思わずイーサンの表情を見ると、彼は頭の後ろを掻いて恥ずかしそうに目を逸らしていた。


「これは……?」

「デロー……君のところではカスティリアと言うんだったな。以前カスティリアを食べていた時、ちょっと味が違うと言っていただろう?」

「え……あ、はい」


 以前「母の作ったお菓子と少々味が違うような」と言った事を思い出す。あの後、イーサンは色々話を聞いてくれたが、まさか……と思ったコトハは、とっさに手の上に置かれた箱を見る。

 コトハの記憶にある味のお店を探してくれたのだろうか。そう思っていると、頭の上から言葉が降ってきた。


「君の母君の味に近づけたつもりではあるが……正直食べてみてもらわないと分からないだろう。良かったら食べてみてくれ」

「近づけた……え、近づけた、ですか?」


 イーサンの言い回しに気づき、無意識に彼の顔を覗き込む。どういう事だろうか、と首を傾げているとイーサンは首を掻きながら明後日の方を向いている。その頬は少し赤らんでいた。


「マリさんが……カスティリアの作り方を知っているんだ。彼女から教わって……作ってみた」

「……!」


 まさか彼の手作りだと思わなかったコトハは、その言葉に目を見開いた。驚き呆然としている彼女を尻目に、イーサンは言葉を続ける。


「寂しそうにしていたからな。せめてこちらでも食べられるように……と思ったのだが……なかなか難しくてな。っと、まあそれは良い。良かったら食べてくれると嬉しい。それじゃあ――」


 番ではあるが、流石に部屋前で二人きりは自分もまずい。そう思ってイーサンは彼女に背を向けたのだが……。


「待ってください!」


 その言葉と同時に、服を引っ張られ少々後ろにつんのめる。なんとか倒れずに姿勢を直したイーサンが慌てて後ろを振り返ると、彼女の頭頂部が目に入る。そして服の裾を握っている手が震えているのに気づいた。

 裾を握っている彼女の手にイーサンが優しく触れると、彼女はゆっくりと裾に触れていた手を離す。彼がコトハに向き直り、優しく手をとると少しずつ震えは止まっていった。それと同時に、彼女から話しかけられる。


「あの、一緒に……食べてもらえませんか?」

「え……いや、しかし……コトハ嬢の部屋で二人きりは……」


 嬉しい提案ではあるが、二人きりはどうなのだろうか。そう思ったイーサンは少々渋る。本人としてはそう言ってもらえて嬉しいし、少々不安定そうな彼女を一人にしておけないという気持ちはあるのだが。

 どうしようかとイーサンが悩んでいると、彼の指に温かさを感じる。何事か、と思い下を見れば、コトハが彼の手を握りしめているではないか。完全に放っておけないと判断したイーサン。

 流石に彼女の部屋は遠慮しようと考えて、良い場所が閃いた。


「それならば、そこにある応接室を使おうか?」

「応接室ですか?」


 話を聞けば、宿舎に住んでいない家族との面会のために使用する応接室が幾つかあるという。それのひとつを借りようという話だ。


「番であっても相手の私的な空間に入るのは、躊躇ためらいがあってな……」


 コトハは成程、と思った。イーサンは気を遣ってくれているのだ。確かに側仕えだったアカネも、最初は気を遣って部屋の中には入らないでいた記憶が思い起こされた。


「お気遣い、ありがとうございます」

「いや、当たり前のことだ」


 コトハにお礼を告げられたイーサンは微笑む。

 イーサンとしては、彼女の話をしっかり聞きたいと思うのだが、コトハの部屋だと気もそぞろになると判断した結果だ。そして、応接室の扉の前にはヘイデリクに頼んで控えてもらおうと考える。

 誰かが部屋に入ってこないように、というのと万が一を考えての判断だ。それに扉を閉めておけば、大声は別だが……普段の会話くらいの音量であれば、外にいる人に聞かれる心配もない。

 イーサンとコトハは連れ立って空いている応接室へと向かう。そして彼女を先に部屋へと案内してから、遠くで見守っていたヘイデリクとマリを呼び寄せたのだった。



 マリとヘイデリクが部屋の扉の外で見守る中、室内ではコトハがイーサンから貰ったデローカスティリアを切り分けていた。イーサンは備え付けの給湯室にあった紅茶を淹れている。

 準備が終わり、イーサンは「先に食べてみてくれ」と告げた。期待の籠った目に見つめられ、コトハはひとつ頷いてから一口食べてみる。すると、ふわりと懐かしい甘さが口いっぱいに広がった。

 口に入れた後、無言になったコトハを窺うようにイーサンは顔を見つめる。


「どうだろうか……?」


 コトハの表情は無表情……いや、少々目を見開いているようにイーサンからは見えた。驚いてくれているのなら良いのだが……と彼が思っていると、コトハはデローの乗った皿を膝の上に置く。その後すぐに俯いてしまったので、イーサンは彼女の心境が掴めない。

 心配して見つめていると、コトハが顔を上げる。目に少しだけ涙が溜まったようで、彼女は手で拭った。


「……うん、これです。この味です……本当に懐かしい……」

「そうか、良かった……」

「ありがとうございます、イーサン様」


 頭を下げて感謝するコトハの姿に、頑張って良かったと心温くなったイーサン。その後も美味しそうに笑顔で食べている姿をじっと見つめてしまう。そのためか、コトハが一切れ食べ終わるにもかかわらず、イーサンのデローは一口も無くなっていないのだが、コトハはその事に気づいていなかった。

 食べ終わったコトハはもう一切れ食べたいと考えていたのだが、贈り物とはいえ持ってきてくれたのはイーサンだ。彼の様子を見ようと顔を向ければ、バチッと視線が交わった。そして一口も無くなっていないデローを見て、コトハは食べているところを見られていた事に気づく。


「あの、本当に美味しいデカスティリアなので、イーサン様も召し上がってください」

「ああ、そうだな。戴こう。コトハ嬢はもう食べないのか?」

「ええと、私は……」


 後でいただきます、と言おうとしたコトハだったが、そう言う前に「くぅ」とお腹の音が鳴る。ついでにイーサンとも再度視線が合ってしまう。恥ずかしさから俯いていると、イーサンが立ち上がりデローを切り分け始めた。


「俺もお腹が空いている。一緒に食べても良いだろうか?」

「は、はい……ありがとうございます」


 気を遣ってくれた事を感じ、コトハはもう一切れイーサンと共にデローを食べたのだった。

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