マリから話を聞いたヘイデリクは全ての仕事を終えているイーサンの元にいた。
コトハが気もそぞろであるため午後は休みを取ったという話と、オウマ王国の話を聞いたからだ。イーサンの執務室に入ると、彼は未だに机に突っ伏している。だが、どうやら仕事は全て終えたらしく、予備で置かれている右側の執務机にはせっせと書類を振り分けているヨルダンがいた。
「ヘイデリクさん、お疲れ様です」
「ヨルダンさん、お疲れ様です。様子は……」
「ああ、見ての通りです。ですが仕事だけはいつも以上に早く処理してくださるので、仕事への支障はございませんよ」
「それは……よかったです」
書類などを呆然と見ているのかと思いきや、間違いなどはきちんと指摘してくるらしい。
「ヘイデリクさんもありがとうございます。ああ、そうだ。室長がこのような状態なので、ヘイデリクさんにお伝えしますが……本日室長は午後休を取ってあります。緊急の仕事もありませんし、問題ないと宰相様から許可を得ておりますので、ご安心ください」
「ありがとうございます」
「いえ、これくらいなら軽いものですよ。イーサン様は本当に真面目でいらっしゃいますから。たまにはこういう日があってもいいと思いましてね」
流石、前外交官室長を支えた男である。前外交官室長は
ヘイデリクはイーサンの目の前に立ち、肩を揺さぶる。正気の抜けた目で彼を見るイーサンは、本当に落ち込んでいるらしい。
「イーサン。このまま彼女と喋れなくなってもいいのか?」
曖昧な返事しかしていなかったイーサンだったが、コトハの事を尋ねられたからか、ポツポツと答える。
「ヘイデリク……良くない。良くないけど……嫌われたと知るのが怖い」
「どうしてそう思ったんだ? お前、告白の返事は聞いていないんだろう?」
「何故それを?」
「マリがコトハさんから聞いた。コトハさんはお前が心配している事とは違う事で悩んでいると言っていたぞ」
イーサンはハッと顔を上げる。
「お前の告白で彼女が嫌な思いをした、とでも思っているのだろうが……彼女は違うと言っていたそうだ」
「コトハ嬢が?」
「ああ。『告白は嬉しかったけれど、過去の事を思い出してしまったのでは』というのが、マリの見立てだ。お前はずっとこのままでいいのか?」
ヘイデリクの言葉尻が強くなる。書類を仕分けしていたヨルダンは、手を止めて静かに二人の動向を見守る。何かあったときは自分が止める事も考えて。
「良くない」
「そうだろう? ならそんなしけた顔でいないで、マリのところへ行ってこい。レノ様といつもの場所で待ってるぞ」
その言葉にイーサンの瞳に正気が戻る。そして、ひとつ頷くと、ヨルダンへ顔を向けた。
「問題ありません。室長は午後休を取っておりますので……お疲れ様でした」
「ヨルダン、ありがたい。今度お礼を渡す」
「いえいえ、それほど手間のかかる事ではありませんから。今はコトハ様を優先されてくださいね」
「助かる」
そして風のように去っていくイーサン。それを見送ると、ヘイデリクは扉へ向かって歩いていく。ドアノブに手をかけたところ、後ろから声がかけられた。
「ヘイデリクさん。いつもの場所って、室長は何をされるのですか……?」
首を傾げているヨルダンに、ヘイデリクは告げた。
「ああ、デローを作っています。それでは失礼します」
イーサンとデローの組み合わせに呆然としていたヨルダンを残し、ヘイデリクはマリの元へ向かう。
「えっ……デロー?」
そんなヨルダンのつぶやきは、静かな部屋の中へ消えていったのだった。
自分の部屋に戻ったコトハは、ベッドへ座った。マリのあの言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡っている。
「自分の心に向き合って、どうしたいかを考える……か……」
イーサンと踊った時に出た言葉。あれは本心だ。コトハは彼と踊りたかったし、月に照らされたバルコニーで見つめあって踊る時間も楽しかった。
――そして彼から愛の言葉を告げられた事だって勿論、嬉しかった。
けれども、それに応えられないのは不安だからだ。また、故郷と同じ事になってしまうのではないか、という恐怖がコトハの心の片隅にまだ残っているから。
コトハは
段々厳しい態度を取られ始めたとしても、彼は自分を信じてくれるだろうと思っていたし、将来夫になるズオウのために巫女姫としてできる限りの事をしたい。そう思って、浄化も毎日頑張ってきた。
コトハは両手で顔を覆う。その手が何かで濡れていく。涙だ。
今まで押さえ付けていた感情が涙とともに溢れ出す。泣いたのは親が亡くなった時以来だった。
暫くして涙が少しずつ落ち着いてきた頃。
喉の渇いたコトハが水差に手を伸ばすと、ふと箱が目に入る。それはイーサンから初めて貰った贈り物……ビスキュイの箱だった。
ビスキュイ自体は既に食べ終わっているのだが、この箱が可愛かったので取ってあったのだ。いつの間にか捨てられない大切な贈り物になっていた。
赤い箱にピンク色のリボン。彼女は優しく箱を胸に抱く。そしてふと、彼の言葉を思い出した。
「彼女はその能力に胡座をかく事はせず、努力しているのを俺は常に見てきた」
そう、初儀式の時のあの言葉。あの時に初めて自分が認められた、と感じたのだ。
あの言葉がもし上っ面だけだったら、コトハの心には残らなかっただろう……だけど今なら理解できる。短期間とは言え、イーサンは巫女姫でもなく、神子でもなくコトハという人を見てくれていた。
だから彼女は心の底からあの言葉に感動したし、嬉しかったのだ。
同時に、故郷の人たちが自分をどう思っているかも……。
――本当は気づいていた。
長老たちもズオウも巫女姫であるコトハを単なる装飾品のようにしか思っていなかった事を。
自分が認められたいからと頑張っていたけれど、そもそも彼らはコトハを見下していた事を。
それを認める事が、自分の今までの努力を否定するようで、出来なかったのだ。彼らに縋っても、努力して結果を出そうとしても……理解してもらえない。いや、彼らははなから理解するつもりなどなかったのだ。
婚約したての頃は、ズオウも彼女を尊重してくれた。けれど成長するにつれて、長老たちのような考えを持つようになり……コトハはきっと諦めてしまったのだろう。
そんなふうに諦めるのが……悲しかったのかもしれない。
手元にある箱を見つめる。
イーサンから愛の言葉を告げられた時、本当に嬉しかったのだ。今まで人と関わらないように、と一線を引いてきたところはあったが、イーサンもレノもマリも……それを理解した上で尊重してくれていた。
故郷の人たちとは違う。それは頭では理解している。理解していても、湧き上がってくる恐怖に抗えない。
暫くの間、コトハは手元の箱を抱きしめたまま呆然と天井を見つめていた。信じたいけど信じられない……そんな気持ちの矛盾が嫌になる。曇っているからなのか、まだ昼間にもかかわらず部屋が暗い。それはまるで彼女の心の中を示しているようだった。
その時、コトハのお腹がぐうっと鳴る。そう言えば、最近食欲が無くてあまり食べられていない事を思い出す。今の時間だといつも利用している食堂はもう夜の仕込みに入っている時間だろう。そう思った彼女は、外の店で何かを購入しようと思い立った。
「こんな時でもお腹は空くのね……」
泣き跡が顔に残っていないかと確認する。少々目が腫れている気がするけれども、気にならない……だろう。彼女は財布を持ち部屋の外へ出ようと思ったその時、扉を叩く音が聞こえる。
コトハは誰だろうか、と思い扉を開けた。するとそこにいたのは、緊張した面持ちで扉の前に立つイーサンだった。