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第24話 お礼

 音を立ててドアが閉まると、その場には二人が残る。初めての二人きりの空間に、コトハは少し戸惑った。目の前のイーサンもいつの間にか立ち上がってこちらを見ており、呆然としている。

 無言の時間が続いたが、先に声をかけたのはコトハだった。


「あの、イーサン様?」


 ポカンと口を開けて突っ立っている彼に、コトハは声をかける。その声で我に返ったのか、イーサンの身体がぴくりと跳ねた後、彼は口を開いたのだが――。


「あ、いや、えっと……す、すまない……部下が書類を置くだけの時はこのような形をとっていて……君を蔑ろにしたわけでは……っと、とにかく済まなかった!!」


 そう狼狽えながら告げた後、イーサンが勢いよく頭を下げる。その瞬間、ゴン! という音が鳴った。イーサンが思い切り頭を執務机にぶつけたのである。

 だが、イーサンは何事もなかったかのように頭を下げている。コトハは慌てて執務机の奥でお辞儀をしているイーサンの元へと駆け寄った。


「イーサン様! 頭をぶつけていますよね?! 大丈夫ですか?!」

「いや、これくらい問題ない。それよりも――」

「いえ! それよりイーサン様です! ぶつけた場所を見せてください!」


 彼女の真剣な面持ちに、イーサンは圧倒されたのか「ああ……」と頭を上げた。コトハは机へぶつけたであろう場所を見るために、イーサンへと思いっきり近づいた。彼の身長が高い事もあり、背伸びしなければ見る事ができなかったからである。


「あ、あのコトハ嬢……竜人族は身体が硬いから本当に大丈夫なのだが……」

「それでも、見ておいたほうがいいですよ! こんなに素敵なお顔に傷がつくなんて……」


 素敵と言われたイーサンは照れから耳を赤く染める。彼女が思わず言ってしまった言葉だ。少なからずとも、自分に対して好意はあるようだとイーサンは解釈した。

 その間にコトハはイーサンの額へと、優しく手を触れる。勿論、額が腫れていないかの確認のために触れたのだ。

 イーサンは彼女からの積極的な行動に一杯一杯である。最初は耳だけが赤かったのだが、思った以上に彼女の顔が近くにあり、距離感に慣れていないイーサンは彼女から目を逸らす。


 一方で、こぶにはなっていない事を確認したコトハは彼に声をかける。


「見たところ、こぶにはなっていないようです。気をつけてください」

「ああ、ありがと……ぅ……」


 お礼を告げながらイーサンはコトハへ視線を向けると、今までで一番近い距離に彼女の顔がある。優しく微笑んでいるコトハの表情が、彼からよく見えるのである。

 今までは想定内の範囲だったからこそ、自分を律する事ができていた。だが、今回はヨルダンの粋な計らいによって、心の準備ができないまま今に至るため、イーサンの顔は真っ赤に染まったのだった。



 その後、時間が経って正気に戻ったイーサンに勧められるがまま、コトハは目の前のソファーへと座った。彼女が座ったのを見届けたイーサンも、反対側へと腰掛ける。


「いや……本当に情けないところを見せてしまった……すまない」


 膝に手を置き、頭を下げて謝罪するイーサンに、コトハは慌てて言葉をかけた。


「いえ、そもそもこちらが驚かせてしまいましたから……申し訳ございませんでした。私もイーサン様へ一声かければ良かったのです。集中してお仕事をされていたので、静かに入室した方が良いのかと思いまして……」

「それでも、だ」


 その後も互いが譲らず、いつの間にか二人とも謝罪する事態に発展していた。終わりの見えなかった謝罪合戦を終わらせたのは、イーサンの笑い声だ。


「……ああ、済まない。これだと押し問答が続くだけだと思ってな。私から言うのもなんなのだが、ここは両成敗という事でどうだろうか?」


 確かにここで言い合っていても、終わらないだろう。そう判断したコトハも首を縦に振った。


「そういたしましょう。今後入室の際は気をつけますね」


 そうにっこりと笑って話すと、イーサンは眼を丸くしてコトハを見ている。


「……何か私の顔についていますか?」

「……いや、なんでもない」


 そっぽを向くイーサンだったが、彼の耳はほんのりと赤くなっていた。


 明後日な方向を向いていたイーサンが、コトハへと向き合う。先程はまるで子どものような表情をしていた彼だったが、今は持ち直したのか普段のような余裕のある優しげな笑みを見せていた。


「しかし、君は意外と頑固なのだな」


 イーサンにそう言われたコトハは面食らった。コトハからしたら頑固なのはどっちだ、と言いそうになったのだが、その言葉を飲み込んだ後言い返した。


「イーサン様も頑固だと言われませんか?」


 まさか言葉を返されると思っていなかったイーサンは目を見張った。そして彼女の反論にイーサンも答えた。


「いや、言われた事はないぞ? コトハ嬢こそ言われた事があるのではないか?」

「私も言われた事はありませんよ?」

「そんな事はないだろうに」

「本当ですよ! イーサン様こそ――」


 途中で二人の視線がまた交わり、その瞬間二人は笑いを堪えきれずに吹き出した。いつの間にか先程と同じやり取りになっていたからだ。


「こんなに謝罪しあったのは人生で初めてだな」

「……私もです」


 そう、初めてだった。

 婚約者になった時からズオウの言葉を肯定するのが良い婚約者だ、と言われ続けたからか……ズオウ自身が長老に、自分から謝ってはいけないと言われていたからか。ズオウと謝罪合戦になった事など一度もない。むしろ相手から謝罪されたのは、幼い頃だけ。片手でも足りるほどだ。成長すればするほど、ズオウに何かが起きれば全てコトハのせいだ、と言って謝罪を要求してきたのだ。

 コトハが関わっていない失敗も全て婚約者だからと押し付け、周囲は彼女に謝罪するよう同調する。結局それに負けて謝罪してしまっていた自分の態度もズオウを助長していたのだろう……そう思ってから、ふと以前よりも故郷の事を客観的に見ているような気がした。追放された時の事を思い出すのはまだ厳しいが、少しずつ傷が癒えているのか、過剰な反応は無くなっている。


 そこまで考えて、イーサンを放置している事に気づく。視線を戻すと、彼は心配そうな表情でこちらを窺っていた。その瞳がやはり気を遣う時のアカネにそっくりで、コトハは彼から優しさを感じる。


「すみません、少々考え事をしていました」

「いや、大丈夫だ。ところで、何か用だったのか? もし話が聞きたければ、俺が出向いたのだが」


 尋ねられてコトハはここへ来た理由を思い出す。言い合っていたので完全に頭から抜けていたのだ。その事を理解して恥ずかしさから頬が赤くなった。とにかくお礼を伝えなければ、とコトハは膝に置いていた手を握りしめた後、首を垂れる。


「今日は助けていただき、ありがとうございました」

「助けた……? ああ、あの男の件か」

「はい。私だけではあの方を落ち着かせる事はできなかったでしょうから……」


 物腰柔らかな司祭ブラッドとコトハの二人だけでは、彼を抑える事など無理だっただろうとコトハは思ったが、イーサンの口から出た次の言葉に彼女は眼を丸くした。


「まあ、俺の手が伸びなければブラッド司祭がどうにかしていただろうな。の方はああ見えて武闘派だから」

「ブラッド様が、ですか?」

「ああ。あの場では君の護衛も兼ねていたはずだ。我慢ならなかった俺が手を出したから、静観してくれたのだろうな」


 首を縦に振るイーサンの姿に、その時の光景を思い出してみると……男に絡まれたブラッドの表情に驚きはあったが、確かに普段の通り和かな表情だったように思う。きっと影で彼もコトハの様子を気にかけてくれていたのかもしれない。

 だが、実際助けてくれたのはイーサンである。コトハは隣に置いてあった袋を目の前のテーブルに置いた。


「あの時……イーサン様に助けていただいて嬉しかったです。それに……貴方の言葉で私の気持ちも引き締まりました」


 彼女の力は俺が保証しよう、その言葉で今までの努力を認められた気がしたのだ。「やはり私では……」と少々気落ちしていたあの時、イーサンの言葉があったからこそ、彼女は気を奮い立たせる事ができたのだから。


「だから……ありがとうございました。こちら、私の気持ちです」


 自分の言葉に気恥ずかしくなって顔は下を向き、眼を瞑ったまま手前にあったコンフェの袋を持ち上げて差し出した。ところが、いつまで経っても手の上にある袋は乗ったままだ。もしかして、贈り物は苦手だったのか……という事に思い至ったコトハは、慌てて顔を上げてイーサンを見る。

 すると彼は顔に手を当てて固まっていた。恐る恐るコトハは彼に声をかけた。


「あの、イーサン様、もしかして甘味は苦手でした……? 嫌でしたら買い直して――」

「いや、済まない! すぐに受け取らなかったのは、嬉しすぎて……! とにかく、ありがたく頂戴する!」


 買い直す、という言葉に反応したイーサンはすぐに手を伸ばし、袋を受け取った。彼の表情を見ると、口元がモゾモゾと動いている。第三者から見れば、彼女からの贈り物が嬉しすぎて……ニヤケそうになる顔を落ち着かせようと努力している表情だと理解できるのだろうが、コトハはイーサンが甘いもの好きで、早く食べたいのかもしれない、と判断した。


「良かったら、今開けてくださっても良いですよ?」

「良いのか?」

「はい! イーサン様のために買ってきたものですから」


 コトハが言い終わった後すぐに、イーサンは袋の中に入っている箱を取り出す。その扱いはまるで大切な物を扱うような丁寧さだった。両手でゆっくりと机に箱を置き、両手で上蓋を外すと……中に入っていたのは色とりどりのコンフェである。イーサンはそれに眼を奪われたようだった。


「コンフェなら保存もききますし、食べても手が汚れないので良いかなと思ったのですけど……苦手な物ではありませんか?」

「いや、大好きだ」

「それなら良かったです! 自分で選んだ甲斐がありました」


 満面の笑みで喜ぶコトハに眼を奪われながらも、イーサンはコンフェを口にひとつ入れた。甘味は好きでも嫌いでもないイーサンだったが、この瞬間にコンフェは彼の大好物になったのだった。

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