あの後は誰からの反論もなく、午前中で全ての参加者を捌き終える事ができた。勿論、再儀式の依頼もなく、文句を言った男性も含め全てが満足したような表情で帰っていった。
コトハは儀式を終えた後、助けてくれたイーサンにお礼を告げようとしたが、司祭に確認すると彼は途中から部下に呼ばれて教会を後にしていたようだ。残念に思っていたコトハに後ろから声がかかった。
「どうしたんだい?」
「えっと、改めてイーサン様にお礼を伝えたいと思いまして」
「ああ、あの突っかかってきた男の件でかい?」
彼女が首を縦に振ると、レノは「後で会えばいいさ」と言って笑う。
「いやー、まさか首飾りをしているお嬢ちゃんに突っかかってくる男がいるとは思わなかったねぇ。あたしがもう少し早く戻っていれば良かったさね」
挨拶だから問題ないだろうと丁度レノが席を外している際に起きた事だったので、後からその事を聞いてレノは驚いていた。彼女の言葉にコトハは首を振る。
「いえ。本当は私がきちんと言い返す事ができたら良かったのですが……」
「お嬢ちゃん、覚えておきな。お嬢ちゃんみたいな可愛い子を弱者と判断し、舐め腐る奴は意外と多いのさ。それにそういう奴らは人の話を聞かないから更にタチが悪いさね。そういう時はイーサン様を頼るといい」
「イーサン様に?」
「ああ。だってイーサン様はあの身長に無表情で圧が強いだろう? 大抵の者は一度怯むさね」
「圧が強い……?」
コトハが思い出すイーサンは、微笑みを絶やさずいつも彼女を優しい瞳で見ている彼の姿だった。圧が強い彼を想像できない。
「まあ、お嬢ちゃんの前じゃあそんな姿は見せないかもしれないがね」
レノの呟きが聞き取れなかったコトハは首を傾げる。
「そう言えば、イーサン様は何故警備にいたのでしょうか? イーサン様も警備の仕事をされるのですか?」
「いや、 外交官室は基本警備の仕事に駆り出される事はないさね。外交官室の者でもイーサン様含めて何人か動ける者はいるが、全員が武闘派ではないのさ。考えても見てほしい。お嬢ちゃんならそんなところに警備を頼むかい?」
「いいえ」
王宮での役職にも、警備担当の部署はあった事を思い出した。もし依頼されるならそこだろう。
「元々イーサン様は、私の儀式を受ける時だけ警備に協力してもらっていたさね。その儀式も年に一度、警備が足りない可能性が一番高い時……だけさ。それ以外はこちらから依頼した事は一度もない」
「でしたら、もう番が判明したイーサン様は警備をしなくても良くなったのではありませんか? 何故……」
首を横に倒したコトハに、レノは苦笑いで話す。
「お前さんだよ」
「私……ですか?」
「ああ。朝一で外交官室のヨルダン……以前執務室にも来ていた男だけど、彼がやってきてね。『イーサン様はコトハ様の事が心配すぎて仕事が手につかないので、送り出しました』と言われたよ。使い物にならないと皆が判断したと。あそこの部署はイーサン様含めて有能な者が多いからね。午前くらいであればイーサン様がいなくても問題ないと判断したんだろうねぇ。お陰で助かったさね」
そう面白そうに笑うレノに、コトハは恥ずかしさから俯いた。まさか自分のために来てくれていたとは。申し訳ない気持ちと、有難い気持ちがせめぎ合っているコトハに引き続きレノが楽しそうに声をかけた。
「今日は初めての儀式で疲れたろうから、お終いさね。午後は休暇にしておいた。良かったら休憩前に、イーサン様の部屋に行くかい?」
「行ってもよろしいのでしょうか?」
「ああ。むしろ喜ばれるさね」
「外交官室の皆様にもお礼に何かお渡ししたいのですが……お菓子は食べるでしょうか?」
「いいんじゃないか? なら外で探してから行くさね」
そう言ってレノとコトハは立ち上がり、執務室を出てお礼を買いに向かった。
「本当にこれで大丈夫なのでしょうか……?」
「大丈夫さね。イーサン様はお嬢ちゃんから貰った物なら、その辺に生えている草でも大切にする男さね」
「流石にその辺の草を渡すのはどうかと……」
「物の例えさ」
そんなコトハが選んだのは、コンフェと呼ばれる砂糖菓子であった。レノから書類仕事が多く、摘めるものがいいだろうと助言を受けたのだ。ひとつは助けてくれたイーサンの分、そしてもうひとつは彼を送り出してくれた外交官室の他の方の分……これはレノとコトハの共同という形をとっている。レノ曰く、「番が他の人に贈り物をすると嫉妬する人もいるさね」という話を受けて、レノと共同にした。
コトハは知らなかったが、外交官室は神子の執務室の真上あたりにあった。神子の執務室は二階、外交官室は四階。階段にも近いため、いつもイーサンは休憩と称して神子の執務室へ来ているようだが、そこまで遠くもない場所だったため、胸を撫で下ろす。
……実は元々反対側の位置に外交官室はあったが、イーサンの番がコトハだと知ったファーディナントがパウルの許可を得て移動させたのを、コトハは知る由もない。
外交官室の室長部屋――イーサンの仕事部屋に着いたコトハは、レノへと視線を送る。彼女が首を縦に振ったのを見たコトハは扉の方を向き、唾を飲み込んでから緊張した面持ちで扉を叩いた。
扉の音と共に聞こえたのは、「はい」という声。その声は先程コトハに突っかかってきた男と対峙していた時のような声と似ている。コトハは扉を開けようとドアノブに手を伸ばしたが隣に現れたヨルダンに肩を叩かれる。思わず目を見張ったコトハにヨルダンは人差し指を口に当ててから片目を瞑った。
後ろにいたレノを見ると、彼女は面白そうな表情をしており、コトハは彼女に手招きされて一歩後ろへと下がった。
「失礼します」
ヨルダンは声をかけて部屋へと入室した。仕事かと思い、外で待とうとしたコトハだったが、小声でヨルダンに「お静かにどうぞ」と言われたため、彼女もレノと共に室内へ入る。目の前には最後の書類の山と格闘しているイーサンの姿。普段見せることのない、真剣な眼差しに彼女は眼を奪われる。
「ヨルダン、書類は机の上に置いておいてくれ」
彼は声で判断したらしい。入ってきた彼には見向きもせずに、目の前の書類に取り組んでいた。普段のコトハへの返事とは違った素っ気ない返事を聞いて、思わず眼を見開いてしまう。
そんな彼女を他所にヨルダンは手元にある書類をイーサンの机へと置くと、にっこり笑いながら彼に声をかける。
「イーサン様、本日分はこれで最後になりますので、少々休憩いたしませんか?」
「休憩? 珍しいな、ヨルダンがそう声をかけるなん……て……?」
顔を上げたイーサンの目に入ったのは、彼をじっと見つめているコトハの姿だった。彼は狼狽えつつも右手にいたヨルダンへと慌てて視線を送ると、彼は悪戯が成功した子どものような表情でイーサンを見ている。
そして再度コトハの方へ視線を向けると、彼女と視線が交わった。無言で見つめ合う二人。その空気を破ったのはヨルダンだ。
「イーサン様。コトハ様もいらっしゃった事ですし、少々休憩したところで誰も怒りませんよ。私はお邪魔のようなので、一旦失礼しますね? レノ様はどうされますか?」
彼の言葉でイーサンとコトハは我に返り、慌てて他所を向く。少々気恥ずかしくなったからだ。そんな二人をまるで親が子を見るかのような生温かい視線を送るヨルダン。イーサンはそんな彼の視線に気づき、
「あたしもヨルダンと一緒に行こうかねぇ……今日の儀式のお礼を買ってきたところさね」
そう後ろでレノが話したので、コトハは慌てて彼女の方へ身体を向ける。その瞬間、レノは外交官室の皆へと渡す予定だったお礼の袋を、コトハの手から取っていった。
驚きから何かを言おうとしたコトハの言葉を遮り、先にレノが口を出す。
「こっちはあたしが渡してくるさね……ちゃんとイーサン様に感謝の気持ちを伝えてあげな」
そうコトハの耳元でささやいたレノは、そのまま右手を挙げてヨルダンと共に他の部下が働く部屋へと向かっていったのだった。