その日から、イーサンはコトハの授業がある日に訪れるようになった。しかも座学中ではなく休憩を取る時間に訪れてくれるだけでなく、休憩中に雑談でコトハが座学で学んだ箇所について補足してくれることもあり、次第に話が弾んでいった。一度、こんな頻繁に訪れていて仕事は大丈夫だろうか、と尋ねた事があるが、現在は重要案件が入っていないので問題ないという。
最初は番を意識していたコトハだったが、最近は友人としてその距離を縮めていた。
座学が始まり数週間ほど経った今日も休憩中にイーサンが訪れる。彼はいつも一言、二言交わすだけでも嬉しいのか笑みを湛えている。そしてコトハを見る目は優しかった。誰かに似ているな、と思いまじまじと見入ってしまう。
あまりにも彼女がじっと見つめたからか、イーサンが不思議そうな顔でこちらを見る。
「どうした? 顔に何か付いていたか?」
その言葉で自分が彼の顔を覗き込んでいた事に気づいたのだろう。コトハは気恥ずかしさから頬を染めて否定した。
「あ、いえ。誰かに似ているなと思っただけです!」
「そうか」と微笑んだイーサンは、今や定位置となったコトハの目の前にあるソファーへと座り向き合った。
そしてふと、彼女の側仕えであったアカネの瞳を思い出す。時には姉のように、時には友人のように見守るアカネのその温かな目線と、今のイーサンの目線が重なり合う。
分かっている。今まで関わってきて、イーサンが悪い人ではない事は分かっている。イーサンは今、番としてではなく友人として接してくれているのも理解している。だけどその度に裏切られた記憶を思い出す。
まだ心の準備ができていないと悟ったコトハは、冷静に距離を取るよう微笑む。そんな彼女の心境を
「今日は普段と趣向を変えて持ってきたのだが……ヘイデリク、ここにナイフはないよな?」
「いや、給湯室にならあるぞ。ちょっと待て、イーサン。何を買ってきたんだ?」
「デローだ」
コトハが同時に蓋を開ける。するとそこには見覚えのある色のケーキらしきものが入っていた。ちょうど給湯室から包丁とまな板をヘイデリクが持ってきたので、彼女が箱から取り出しまな板の上に乗せると、色鮮やかな黄色のスポンジが目に入る。
まさかここでこのお菓子と出会えるとは思っていなかった彼女は、無意識にイーサンに話しかけていた。
「これは……?」
「デローというお菓子だ。詳しくは知らないが、卵と砂糖と小麦粉……他にいくつか材料を混ぜ合わせて焼いた菓子らしい」
「私の国はカステラと言ったわ。しっとりしていて美味しいよね! ……ってコトハさん?」
コトハは目の前のデローに釘付けだった。そう、彼女もこのお菓子を食べた事があったのだ。
ぼうっとしているコトハを不思議そうに周囲が見守る中で、動いたのはマリだ。彼女はコトハに声をかけた後、包丁でデローを切る。そして切り終わると、ヘイデリクが手に持っていたお皿とフォークに一切れずつ置いた。
「さあ、どうぞ。コトハさんも食べて!」
皆がコトハに注目する中、彼女はその視線に気づく事なくデローを口に入れる。その瞬間、しっとりした食感とほんのり伝わる甘味、そして卵の濃厚な味わいを感じた。
「……カスティリアだわ」
無意識にそう呟いていたコトハは、ふと皿を持つ手の上に水滴が当たったのを感じた。水漏れだろうか、と最初は考えたがすぐにそれが自分の涙だという事を理解する。涙が頬をつたっていたからである。
顔を上げた彼女の涙に驚いたのは、イーサンだ。
「え、あ、だ、大丈夫か?!」
彼女の涙に狼狽えるイーサン。彼は思わずコトハの肩に触れようと伸ばした手を引っ込める。
「泣くほどデローが美味しくなかったか?! 今度からこれを買うのは控えるように――」
「いいえ、そんな事はありません!」
イーサンの言葉を遮るようにコトハは大声で叫んだ。その様子を見て周囲はポカンと口を開けている。
「あ、大声出してごめんなさい……違うんです。本当に美味しかったんです……デローは私の故郷ではカスティリアと呼ばれていまして、私の母の得意なお菓子がこれだったのです。その事を思い出して涙が出てしまったようです」
故郷でも母と離れた後から、彼女の作るカスティリアは一度も食べていない。一度だけ「内緒ですよ」とアカネが作って食べさせてくれ、それも美味しかった。カスティリアはそれ以来だ。まさか故郷から離れたこの場所でも食べられるとは思っていなかった彼女は、思わぬ出会いに涙をこぼしてしまったのだ。
「まさか故郷から離れたこの場所でも食べられるとは思わなくて。カスティリアは私の好物なのです……イーサン様、ありがとうございます」
座りながら深々とお辞儀するコトハに、イーサンはそっと近づき片膝立ちになった後、顔を上げるように告げる。彼女の肩がぴくりと動くが、ゆっくりと彼女の顔が上がり、イーサンと視線が合う。コトハはすでに涙を自分で拭ったらしく、顔には笑みが浮かんでいる。
「コトハ嬢が気に入ってくれたようで良かった。このデローは君の母君の作ってくれたカスティリアの味とそっくりだったか?」
「はい。このデローも本当に美味しいです」
この言葉は勿論嘘ではない。イーサンが持ってきたデローも勿論美味しい。
ただコトハは気持ちが落ち着いてくるのと同時に少々物足りなさを感じていた。足りないものはなんだろうかと頭の中で考えていると、悩んでいる事を理解したらしいイーサンが声をかけてきた。
「もしかして、何か気になる事でもあったか?」
「いえ、そうではないんですけど……母の作ったお菓子と少々味が違うような気がしまして。それがなんだろうなぁと思っていたところです」
「成程、それは俺も気になるな。覚えていればで良いのだが、母君のカスティリアの話を聞かせてくれるか?」
「はい!」
その日はカスティリア談義で盛り上がった。
コトハが涙を見せた夜。イーサンに誘われヘイデリクは街に繰り出していた。二人で大衆食堂に入り、個室でのんびりしながら酒を飲んでいる。気不味い雰囲気が続く中、先に声を上げたのはヘイデリクだった。
「イーサン。お前、すごいな」
「何がだ?」
「今日コトハさんが泣いた時、思わず抱きしめようと手を伸ばしただろ?」
「ああ」
「俺だったら抱きしめたな。今だって毎日でも会いたいだろうに、俺らがいる日だけ来るようにしているんだろ? よくできるな」
「まあな」
イーサンも番が目の前にいるのだ。触れたい、独り占めしたい、という欲はある。だが彼女はそれを望んでいないのも分かるのだ。
今のところ、彼女が他と比べて心を許しているのがレノ、マリの二人だろう。イーサンがその二人以上の存在になりたいのであれば、今は我慢の時なのである。
ちなみにこの話は一週間前にレノとしていた。レノもそれがいい、と同意を得ているので周囲にどう思われようがその意思を貫くつもりだ。
「お前の例があるからな」
「……そうだな」
ヘイデリクがマリの話を聞かずに暴走した事は、記憶に新しい。今では笑い話にできるそれではあるが、そうなるまでに何年費やしたことか。
イーサンとしては、そんな二の舞を踏みたくないのだ。
「俺の事はいい。それよりイーサン、本当にやるのか?」
「ああ、俺はやるさ」
「一度決めた事はやらないと気が済まないやつだから、止めても無駄か……」
目の前にはやる気に満ちたイーサンがいる。
「分かった。マリには言っておく。だが二人だけでいるのは……」
「分かってる。その場にはヘイデリクも居てくれ。それにお前の番に何かをすると思うか? 俺も番がいるのに」
「いや。思わない」
「ならよろしく頼む」
そう言って頭を下げるイーサンに、ヘイデリクはため息をつく。
「まさかお前から、番のために自分で思い出の味のデローを作りたいと言われるとは思わなかった。お前がお菓子作り……」
エプロンを着けてニコニコと満面の笑みで作っていそうなイーサンを頭で思い浮かべ、すぐに頭から消した。