翌日の午後、マリとヘイデリクが神子の執務室に顔を出す。
レノから、講師は守護人の二人だと聞いてコトハは胸を撫で下ろしていた。やはり新たな地であるからと気を張っていたようだ。二人の顔を見て懐かしさを感じる。
座学は神子の執務室の隣にある部屋で行われる。普段はレノが客人を呼ぶ時に使用する応接間なのだが、滅多に使用する事がないとの事。しかし、執務室と同様にある程度の本や地図は揃っているので、必要な物があればそれを使用して良いと許可を得る。
ヘイデリクとマリ、コトハはソファーに座って話し始めた。
「宰相様から話を聞いた。具体的にどんな話を聞きたいのか教えてもらえると助かる」
「特に知りたいのは国名や地方名、地名でしょうか……ある程度詳しくなれるともっと情報を拾う幅が広くなると思うので」
コトハの言葉にヘイデリクとマリは首を傾げる。これもコトハだけが分かる感覚なのだろう。
「ふむ、情報を拾う、とは?」
「私の場合儀式を行うと頭の中に相手の番の情報が色々と流れます。それを私が取捨選択……というか、理解できるものだけを拾っている感じ、ですかね……? そのために、ある程度の情報を理解していれば、もっと情報を受け取る事ができるのではと思ったのです」
「成程ね。だったら地理を中心に教えれば良いかしら? 地方によって特産品があるから、何かしらの役に立つかも知れないわ」
「そうですね。相手の職業も出てきたりするので教えていただけると嬉しいです」
「そうか、相手の職業が分かればより正確に番を把握できるな。だが、王宮の組織は流石に我々は把握しきれていない。そこに関しては王宮も含めて職業に関しても勉強できるように取り計ろう」
「ありがとうございます」
そう言ってコトハは頭を下げた。
「じゃあ、今日は軽い雑談から始めよっか?」
マリはにっこりと微笑む。
「ちょっと気になっていたんだけど、コトハさんは困っている事はない?」
「困っている事、ですか?」
「そう。いきなり常識が異なる世界に来たんだもの。やっぱり戸惑う事もあると思うの」
マリはコトハに笑いかけた後、ヘイデリクにも視線を送る。その視線に応えるように彼は頷いた。
「ああ。迷い人には迷い人が抱える特有の悩みなどあるかも知れないと思ってな」
「私も昔は日本との世界観の違いに困惑したから……聞くなら今なのかな? と思って」
悩み、と言えば番の事についてだろうか。イーサンに番と言われたが、どう接したら良いのかが分からない。元婚約者だったズオウとだって、幼い頃はよく遊んだが……彼が次期長老との呼び名が高まるにつれて、彼と話す時間も短くなった。もしかしたらあの追放の時が一番彼の顔を見て、話をした……そんな気がしてくる。
なんとなく番と言うのが憚られてコトハはまごつくが、ふと顔を上げた。
「あの、マリさんが迷い人としてこちらに来てからの話を教えていただけませんか?」
「私の?」
「はい。えっと、ヘイデリクさんとの出会いとか……」
「うーん、私たちは特殊だと思うけど良いかしら? デリクも良い?」
「勿論良いぞ」
コトハもヘイデリクの言葉に続いて首を縦に振る。
「分かった。私の話を教えるね」
そう告げてマリはこの土地に
「私は転移陣に乗ったわけではないんだけど、気づいたらあの遺跡にいたの。あの時迎えに来たのはデリクと、デリクの義父さんでね。二人とも背が高いから本当に驚いたよね。私の故郷には二メート……こっちではメトラだったわね。二メトラを超える身長の人たちっていなかったから」
今回はマリとヘイデリクだったから、そこまでの圧は感じなかったが……確かに彼が二人いると考えると少し怖いかも知れない、とコトハは思う。
「しかもデリクだけじゃなくて義父さんも、顔が顰めっ面で怖いのよ……最初、『あ、私やばい?』って思ったわ」
「そんな事思ってたのか」
「そうよ! だから顰っ面はやめて、て言ってるのよ」
バツが悪そうな表情でマリを見るヘイデリク。そんな彼に追い打ちをかけるようにマリは話し続ける。
「しかもね? それ以上に驚いたのはデリクと目が合った後。デリクと目が合った私、どうなったと思う?」
「……ヘイデリクさんはマリさんが番だと気づいたんですよね?」
「そう。そうなのよ。気づいたのは良いんだけど、いきなり抱きしめられたのよ?! その時は……『私、終わった』と思ったわね。まさか私が偶然相手の番で、感極まって抱きしめたなんて気づくわけないわよね。コトハさんの故郷は初対面で抱擁する事はあった?」
「ありませんでした」
「私の故郷の国ではなかったけど、他の国では軽い抱擁を挨拶としている国もあったの。でもね、でもね? デリクは軽いどころじゃなくて、むしろちょっと痛いくらいだったのよ」
初耳だったのか、ヘイデリクは謝罪する。
「それは……済まなかった」
「本当よね。慌てた義父さんが引き剥がしてくれなかったらどうなっていたか……」
はあ、とため息をつくマリにヘイデリクが頬を掻く。どうやら彼はマリの尻に敷かれているらしい。そんな彼を尻目にマリは続きを話す。
「そう考えるとイーサン様は凄いわよね」
「イーサン様、ですか?」
思わぬ名前が出て、コトハは目を丸くする。
「だって、コトハさんが番だと分かっても衝動を制御できたのでしょう?」
「衝動、ですか?」
「ええ。デリクもそうだったけど、番に会った衝動で初対面の相手を抱きしめる人が多いらしいのよ。むしろそれが普通だって言われているわ」
「そうなのですね……」
コトハは考える。彼女の中ではヘイデリクは冷静沈着な印象だ。そんな彼が取り乱してマリを抱きしめる、それくらい番が判明した時の衝動は強いのだろうと。だが、ここで疑問が浮かび上がる。では何故イーサンは彼女にそうしなかったのだろうか、という事だ。
「この世界の人族はそれを知っているから受け入れるらしいけど、私たちはそれをされても戸惑うだけでしょう? 私が狼狽えたようにね。イーサン様は事前にコトハさんが迷い人だと知っているから、その辺気を使ったのかしら?」
「まあ、俺の話を知っているからその可能性はあるな。それでも衝動を抑え込むのは凄いと思うが」
「ヘイデリクさんでもそう思うのですか?」
無意識に口をついて言葉が出ていた。
「ああ。他の竜人族や獣人族に聞いても驚かれるぞ」
「コトハさんを大切にしたい、という気持ちが上回ったのかも知れないわね」
ふふふ、と笑うマリに視線を向けられて少々気恥ずかしくなったコトハ。そんな彼女を温かい目で見ながらマリは話を元に戻した。
「ちなみにデリクは義父さんに言われても中々離れてくれなくてね。それで、見かねた義父さんが引き剥がしてくれて、番について説明してくれたのよ。私は故郷の娯楽小説でよく番という言葉を見ていたから、比較的早く理解はしたけれど……そんな話を知らなければ、なかなか難しいよね」
「娯楽小説ですか……」
「コトハさんの所にはそういう物はあった?」
「いえ、私の故郷にはありませんでした。ですから番、と言われてもマリさんのようにすぐ理解はできなかったと思います」
そう考えれば事前に番の情報が聞けて良かったのかも知れない、とコトハは思った。イーサンと視線が交わった瞬間、彼の瞳に恋情が宿っていたのを思い出す。番という事前情報がなければあの視線を受けた彼女は、イーサンの事をどう思っていただろうか。少なくとも良い方向に捉えてはいなかったと思う。
ふう、と安堵のため息をつくコトハ。そのため息が自分では何故出たのかも分かっていないが、マリの話を聞いていて、ふと思い浮かんだ事をヘイデリクに尋ねてみる。
「あの、話の途中ですみません。ヘイデリクさんにお聞きしたいのですが……番が見つかった時って、どんな感覚になるのでしょうか?」
「どんな感覚とは?」
「えっと、マリさんと視線を合わせた時のヘイデリクさんの気持ち、と言えば分かり易いでしょうか?」
コトハが何を求めているのか理解できたらしいヘイデリクは、「ああ」と呟いた後考え込んだ。
「……なかなか難しい質問だが……そうだな、最初目が合った時は人生で一番と思えるほどの感動が襲ったな。マリが番である、という感動だったか……。その次に湧き出てきたのは、触れたい、抱きしめたいという衝動だな」
「その衝動には抗えなかったの?」
「ああ。例えは難しいが、そうだな。忙しくて水が飲めなくて……喉がカラカラに乾いた時に水を渇望した事はないか?」
「何度かあるかな。喉から手が出るほど欲しい、そんな感じかしら?」
マリがヘイデリクの言葉に同意する。コトハもその状況に覚えがあった。故郷では水無しで次の村まで数時間の道のりを歩く、なんて事が何度もある。その時のような状況に似ているのかも知れない。
コトハも頷けば、ヘイデリクは「分かってくれて良かった」と告げた。
「まあ、多分二人が思う以上の渇望ではあるだろうが。二人は喉が渇いても水を奪い取る事はしないだろう?」
「確かに、奪い取る事はしませんね」
「私も奪い取った事はないわ。なんとなく分かるような分からないような?」
そう告げるマリにヘイデリクは肩を竦めた。
「仕方ないさ。あの感覚は竜人族や獣人族のように番が判る者たち特有のものだ。迷い人であり人族である二人が分かったら、逆に俺は驚く。だからこんな感じにしか伝える事はできないが、分かってもらえただろうか?」
「ありがとうございます」
まだ彼の言う衝動の凄さは分からない。でもひとつだけ理解したのは、その衝動を抑えてくれたイーサンは彼女の事を気遣ってくれたのだ、と言う事だ。もしあそこで衝動のままに抱きしめられていたら、彼女は怯えていた可能性が高い。
少しずつイーサンからの好意を実感しつつあるコトハだったが、まだまだそれを受け入れられるかは別問題である。