「イーサン様、よく我慢したねぇ」
コトハが去り、緊張の糸が切れて椅子に背中を預けたイーサンに声をかけたのはレノだった。
「まあ……な」
「てっきり暴走するんじゃないかとヒヤヒヤしていたが……部下がいる男は貫禄が違うさね」
ケラケラと笑いながらレノに言われ、イーサンは頭を抱えてため息を吐く。
「まさか……新たな神子が番だとは思わなかったな……」
「違いないねぇ。でも良かったよ。ヘイデリクとマリが言うに、あの子の故郷には人族しかいなかったようだから、本能のままで彼女に接していたら、引かれただろうね……かくなる上はあたしが引き離そうと覚悟してたさ」
「俺としては儀式だと言って引き離してくれたのも有り難かった。あれがなければ、俺も冷静にはなれなかった」
「どうやって冷静になれたんだい?」
「ヘイデリクの事を思い出していた」
当時、ヘイデリクが迷い人であったマリを番だと認識した時の話だ。遺跡内でマリと目が合った瞬間に番だと判断した彼は、一言も話していないにも関わらず感極まって「俺と結婚してくれ」と告げた後、抱きしめたという。
「ああ、そんな話があったねぇ。確かそれに気付いたベイリックがヘイデリクをマリから引き離して、すぐに番について説明をしたんだっけ?」
ベイリックとはヘイデリクの父である。彼が二十歳になったから、と隠居したいベイリックがヘイデリクに守護人の仕事の引き継ぎをしていた。そんな時にマリが現れたのである。
「そうだ。幸いマリの世界には番という概念があったから理解が得られたが……全てがマリのように上手くいくわけではないだろうからな」
「お嬢ちゃんは番という概念を知らない部類さ。番について頭では理解できているけど、呑み込めていないみたいさね」
「そうだろうな」
人族の者が「番が分からない」というのを、イーサンたちが理解できないのと同じだ。事前にレノがいる場所でコトハに会えて良かった、とイーサンは思った。
「それに今まで番が見つからなかった年月を考えれば、番がいるというだけで俺は嬉しいからな」
「イーサン様の番が迷い人……きっと女神アステリア様のお導きさね」
「そうだな。祈った甲斐があった」
祈りの半分は愚痴だったが、と笑いながらイーサンは言う。レノはまるで孫を見るような目でイーサンに微笑んだ。
「イーサン様とあの子が目を合わせたのも良かったのかもしれないねぇ」
「そうなのか?」
「もしイーサン様が番だと分からない状態であの子が儀式を行なっていたら……混乱しただろうさ」
しみじみと話すレノにイーサンは尋ねた。
「混乱とは?」
「相手の番が自分だった場合、自分の情報が頭の中に入ってくるのさ。あたしの旦那の時もそうだった。まあ、あたしは儀式前に旦那と目を合わせていたから、番だと気づいたがね。念の為に儀式をしたら、あたしの姿が浮かんでくるのさ。あの時は驚いたよ……あたしは一目見て分かったらから儀式が正確だと理解できたが……彼女は人族で番に気づけないだろう? しかも彼女は儀式をするのが二回目だ。それで自分の名前が出てきたら、何かの間違いかと思うだろうねぇ」
「確かに、そうか」
「だからイーサン様が番だと気付いて、あたしが儀式をしたのも良かったのかもしれないさね」
「お陰で彼女を冷静に見る事ができたから、それは本当に助かった……」
「それは良かったよ。まぁ、あたしも肩の荷が降りたさね。流石に大陸一番と言われているあたしでも、異世界? とやらには力が届かないさ」
だからイーサンの番は見つからなかったのだろう、とレノは声を上げて笑いながら告げる。イーサンも彼女の言葉に同意してから、すぐに真剣な表情へと変わった。
「ひとつ気になる事がある。彼女はなぜ転移してきたのか、レノ様は知っているのか?」
「まあ、多少は知っているけどねぇ……何が気になったんだい?」
「……『婚約者』という言葉が出た際、表情が強張ったように思うのだが」
「ほう、そこまで見てたのかい! 流石だねぇ」
「で、どうなんだ?」
急かすように話すイーサンに、肩をすくめるレノ。そんな彼女の姿に彼は目を細めた。
「そうさねぇ……あたしも詳しくは……聞いたのは、彼女が故郷から追放された、というくらいさね。まあ、予想だけどねぇ……故郷での彼女の待遇は良くなかったんじゃないかねぇ……」
「そうなのか?」
「ああ。詳しい話を宰相様が聞こうとしていたんだがね……あまり良い思い出ではなさそうだという事でそっとしておこう、という事になったのさ。まあ、イーサン様になら追々話してくれるんじゃないかねぇ」
「……そうなると良いのだが、俺としてはあまり自信がないぞ……」
眉間に深い皺を寄せながら思い悩むイーサンに、レノは激励も込めて軽く肩を叩いた。
「そこまで心配しなくてもいいさ。イーサン様はちゃんとあの子の事を考えて接する事ができていただろう? 独りよがりにならず、相手の事を考えて接すれば、いつかは心を開いてくれるさね。あたしから見て、あの子はちゃんと現実を受け入れる力のある子さ。いつかはイーサン様を受け入れてくれると思うさね」
「それは……本当か?」
「これでも色々な人を見てきたからねぇ。伊達に歳は食ってないさ。まあ、イーサン様は暴走しないように気をつける事さね」
「ああ」
返事をした後、イーサンは立ち上がる。なんとなく彼がソワソワしているように見えたレノは、ニヤリと笑いながら声をかけた。
「おや、話はもういいのかい?」
「話したいのは山々なのだが、仕事が残っているからな。そうだ、コトハ嬢の儀式についてだが……」
「明日の午後なんかどうだい?」
「……いいのか?」
驚いた表情を見せるイーサン。コトハの様子から、イーサンとしては彼女と数日は会えないだろうと考えていたのだろう。よく見ると驚きだけではなく、喜びの表情も窺える。
「いいさいいさ、こっちは午後であれば時間の融通がきくからね。むしろ時間を作るのが大変なのは、そっちじゃないかい?」
「……仕事はどうにでもなるから問題ない」
「そうかい。ならいつ来ても歓迎するさ。ああ、こっちが無理な場合は昼前に連絡入れるから、よろしく頼むさね。あ、休憩用の手土産は忘れるんじゃないよ?」
「ああ。必ず用意する」
イーサンは返事をした後、扉へと向かう。レノは彼の姿が扉の先へと消えるまで、見送った。
扉の閉まる音が聞こえ、部屋にはレノ一人となった。ふう、と一息ついた彼女の顔は天井を向いていて、背もたれに背中を預けたからか力が抜ける。入室時の時はどこか諦めたような雰囲気だったイーサンの表情が、退出時には嬉しそうな表情だった事に安堵していたのだ。
「……年々表情が曇っていくイーサン様を見るのは、こっちとしても辛かったからねぇ……本当に番が見つかって良かったさ。ああ、イーサン様とお嬢ちゃんが関わる事で、二人に良い影響があれば良いんだけどねぇ……一旦は様子見かね。あー、この歳になって若いもんを見守る事になるとは思わなかったさね」
口ではぶつぶつ面倒くさいと呟いているレノだったが、その表情は楽しそうに微笑んでいた。