牙がゆっくりと刺さっていく。不思議と痛みはなかったが生温かい感触と吸われる感覚にぞくりと身体が震えて、思わずシオンは男の肩を掴む。
(なんだろ、この感覚)
言い知れぬ感覚に痺れる身体にシオンは耐えようと目を瞑る。男の咽喉が鳴るのを耳にして、それだけで血が抜かれているのだと実感する。
だんだんとぼんやりする思考にシオンが落ちそうになると刺さっていた牙が抜かれた。
男は噛み付いた痕を舐めるとシオンの首筋から顔を上げた。その瞳はわずかに赤みがかっていたが、すうっと元の空色へと変わる。
飲み終えた男は怪我をした脇腹に触れた。破けていた服から見えていた傷跡が途端に消えて、服も元の綺麗なワイシャツへと戻っている。
治る瞬間というのを初めて見たシオンは「おぉ……」と思わず声を漏らす。男は腰を上げるとシオンの身体を支えるように立ち上がらせた。
「助かった」
男に礼を言われてシオンはまだぼうっとする頭を起こしながら「いいって」と返す。治ってよかったなと笑う彼女に男はじっと目を向けていた。
「対価を払わなければならない」
「え、別に気にしていないんだけど」
これはシオンが放っておけないからと自分で決めたことで、半ば押し付けだったと思わなくもない。そのため、お礼をされる義理はないので「気にしなくていい」とシオンは言うが男は違うのだと首を振る。
「これはルールだ。対価無しに血を分けてもらってはならない。人工血液や吸血種専用の献血などは金銭という対価を支払っている」
「でもさ、普通に血を吸ったりしてたんだろ?」
「それは百年前の話で、今は法が制定されている」
魔界にも法律というのが存在する。百年前は対価無しに吸血することは許されていたが、今はそうではない。対価無しに血を買う行為は許されず、許可なく行ったものは裁かれる。
「今回のはお前の同意があったからいい。だか、その対価を支払わなければならない」
「その、なんか大変なんだな……知らなかった」
同意があったとして、対価を要らないと言ったとしても支払わなければ罰が与えられる。黙っていればいいのではないかとも考えるが、何処でそれを知られるか分からない。隠していたことで罰が重くなるのはシオンでも理解できた。
「名前は何という」
「えっと、シオン。シオン・ルデーニだけど……」
「……フルネームを明かすのか」
シオンの素直さに男が眉を寄せる。名前を聞かれたのだから答えるのは普通だろうとシオンが「名前を聞いたのはあんたじゃん」と返せば、「シオンだけでいい」と男は返す。
知らない魔族に全ての名を明かすのは危険な行為だ。その名を悪事に使う可能性だってあるのだと危険性を男に指摘されて、シオンはうっと声を詰まらせる。
「なら、あんたも教えてくれればよくない?」
「アデルバート・アインハイム・シュバルツ」
「あ、アデルバート?」
相手もフルネームで明かすものだから、シオンは思わず聞き返す。そんな様子に「アデルで構わない」とアデルバートは返す。
「フルネームは教えてくれるんだ」
「公平ではないだろう。それに偽名かもしれないぞ?」
アデルバートはそう言うと口角を上げる。そんなことを疑いだしたらきりがないとシオンは口を尖らせた。
それが彼には可笑しかったのだろうか、小さく笑う。あんなに表情が冷たかったのに綺麗に笑うものだからそれは反則だなとシオンは思う、よく整った顔立ちにそれは映えていたから。
出かけていた文句も口にできなくなってシオンはむーっとアデルバートを見つめる。
「今すぐにでも対価を支払いたいが、もう日が暮れてしまった。お前はその見た目だとまだ若いだろう? 親が心配する」
「あっ、そうだ! もうこんな時間じゃん!」
腕に付けた時計を確認したシオンが月が昇り始めた空を見て慌てる様子にアデルバートはふむと考える素振りをみせた。
「シオン。二日後は空いているか?」
「二日後? えーっと……空いてるけど」
「なら、その日に対価を支払いたい」
本当に気にしないのにとシオンは思うが、そういう決まりなのだと言われてしまうと断ることはできない。知らずに飲ませてしまったのは自分なので、大人しくその対価を貰うしかないのだ。
アデルバートが断っていたのはこの決まりがあったからなのかもしれない。余計なお節介だったのかなぁとシオンは思いつつ、それを了承した。
「二日後、十時にこの街の広場に来てくれ」
「広場っていうと……噴水前が一番分かりやすいからそこにいるよ」
じゃあと手を振ってシオンは走った、急いで帰らなければリベルトが心配してしまう。此処から教会はそう遠くはないので急げば大丈夫だとシオンは駆けていった。
*
シオンの後姿を見送りながらアデルバートは唇を拭う。
(久しく人間から直接、吸血したな……)
直接、吸血するなどいつぶりだったか。久片ぶりのそれはとても甘美なもので、癖になる味わいだった。
「……シオン、か」
アデルバートはシオンの血の味を思い出しながら呟いた。