「ヴぁぁぁっ……」
形容しがたい巨体な獣が倒れ伏す、それを冷めた眼差しで男は見詰めていた。襟足の長い浅葱色の髪を靡かせて、黒いロングコートを翻すと男は歩き出す。
「今日はついていない」
男は愚痴る。下級魔物の討伐だと聞かされていたというのに、蓋を開けてみれば中級魔物でしかも群れを成していた。何組かに別れ討伐にあたったが、群れの長に当たり思った以上に時間がかかってしまう。
下級魔物だと誤報が回ったことへの始末書のことを考えると面倒でならない。そもそも、それに関しては自分は関係ない。
(連日の捜査と討伐で魔力をだいぶ消費してしまった。早く、血液を摂取しなくては……)
男は腕につけた時計に目を遣って空を見上げればゆっくりと日が沈み始めていた。
(人工血液では回復が追いつかないないか……献血を頼るか)
男がそんなことを考えた一瞬の隙、バシュッという何かが引き裂かれる音が響いた。溢れ出る血、男の脇腹は深く切り裂かれていた。
「……っ!」
男は素早い動きで振り返ると魔弾を放つ。それは一直線に獣の方へと飛び、その身体は破裂した。ばらばらに飛び散る肉片、群れの長の最後の力のようで男は脇腹を押さえながら苦笑した。
「あぁ、本当についていないな、今日は」
***
魔界という異世界が存在する、それを人間界で生きる者たちは知らない。そもそも、信じている者すらいない。そんなものなどただの御伽噺だとしか思われていないのだから。
魔界でも人間という存在はいるが人間界で生きていた人間は少ない。けれど、稀に人間界から魔界に堕ちてくる人間というのがいる。人間界の人間の血肉は極上であり、魔族からは贔屓されるが命の保証があるわけではない。
「いいかい、シオン。お前は人間界から堕ちてきた哀れな人間だ。死して魔界に落ちてきたのなら最後、元の世界に戻ることはできない」
神父の姿をした年老けた男が目の前に座る少女にこの世界のことを説明する。シオンと呼ばれた少女は黙ってそれを聞いていた。
シオンは人間界で暮らしていた人間だ。彼女は人間界での事故で両親と共に死んだのだが、魔界に堕ちてきてしまった。右も左も分からず不安と恐怖で固まっているところを神父の男に拾われたのだ。
街から外れたぽつんと建つ小さな教会の傍だったこともあってか、魔族に見つかることもなく神父の男に保護されたシオンは彼に事情を話した。それを聞いた男がこの世界のことを教えたくれたのだ。
「シオンは今日からこの世界の人間として生きなければならない。そうしなければ、魔物に食い殺されるか、魔族にいいように扱われるだけだ」
「あたし、どうやって生きれば……」
シオンの愛らしく中性的な顔が不安で歪む。神父の男は彼女のボブカットに切り揃えられた赤毛の髪を優しく撫でた。
「お前は今日からわたしの元で暮らしなさい。わたしの娘として生きていけばいい」
「でも、あたし……」
「何も知らないのは当然だ、わたしが教えよう。それにシスターになれとは言っていないさ」
この世界で生きれるように教えるだけだと神父の男は安心させるように笑みを見せる。シオンはまだ不安そうにしているがこの男の申し出を断れば、自分は長く生きられないのは理解できたので頷くしかない。
「その、本当にいいの?」
「いいよ。丁度、娘が欲しいなと思っていたところだ」
男は「わたしには子供がいないからね」と言って優しく微笑む。シオンは彼が嘘なく本心から言っているのだとその表情から察した。
シオンはこうして神父の男、リベルト・ルデーニの娘として魔界で生きることになった。
*
シオンはそんな少し前のことを思い出していた、自分が人間界から魔界に堕ちてきた日のことを。
小さな教会の前で落ち葉を箒で掃きながらシオンはこの世界は不思議だなと思う。空を飛ぶドラゴンに、翼の生えた魔族、魔物、それらを見てはいるけれど実感が今だにない。
これは夢なのかと思うこともあるけれど、お腹は空くし、怪我をすれば痛みを感じる。疲れも、睡魔もあるのだから現実なのだ。
黒い修道服にもすっかりと慣れてしまったシオンはこの魔界を実のところ楽しんでいた。未知の世界に不安や恐怖がなかったわけではない。どうなるのだろうかと考えていたし、魔族や魔物を恐れたこともある。
とはいえ、もう自分は元の世界に戻ることはできないので、此処でやっていくしかないと受け入れてシオンは楽しむことにした。
そうやって気持ちを切り替えて生活してみると、思ったよりも居心地が良くて住みやすかった。人間界であった便利な器具はないにせよ、魔術が発展しているため魔法で済んでしまうので不便に感じたことはない。
火を熾すのも、水をくみ上げるのも、魔法だ。ヴァンパイア用の人工血液も魔術によって作られているらしい。採血や献血だって魔術で作られた器具で行えるのだから、人間界よりも凄いとシオンは感じた。
自分を拾ってくれた神父、リベルトは人間だけれど魔術が使えるのでシオンは彼の魔法を見て毎度、驚いている。そんなシオンにも彼は簡単なものを教えてくれていた。
シオンが使えるのは火を熾す魔法と水をくみ上げる魔法だ。まだこれしかできないけれど、練習すれば護身術くらいならできるようになるとリベルトから言われていた。
自分が魔法を使えるとは思っていなかったのだが、使えるようになると幼き頃に夢見ていたことが現実になって嬉しかったのを覚えている。
「シオンちゃーん」
名前を呼ばれて振り向けば、長い金糸の髪を靡かせて駆けてくる少女の姿があった。
色白の肌が日差しに煌めいて、真っ青な瞳はシオンを捉えている。その後ろには白毛の髪をもつ猫の耳を頭に生やした少年が彼女を追いかけるように走っていた。